人は頭でモノを見る
周りの人達が描いている絵を見まわして、マリコは改めて写生の意味を考える。
ルネサンス以来、西洋の絵画にとって写生の意義は大きいし、近代では印象派を持ち出すまでもなく、アカデミーにおいても制作の大前提だよね。でも、一般的には、絵を描くいう時、必ずしもその時にモデルを眼前にする訳ではないから、花を描く時には、既に持っている花の記憶に従って、あるいは、花の絵を思い出しながら描くということ。
マリコには、向こうに活けてある花と隣の人の絵の印象がうまく重ならない。茎の伸びやかさや葉のまとまりや広がりが、ほとんど無視されているように感じるのだ。つまり問題は花弁の色とそのボリュームに集約されていて、絵具を厚く乗せてそれを再現するのが皆の課題なのだ。上手に色をつくる人のキャンバスをしばらく眺めたが、マリコの違和感は消えない。
ふと、建築でも同じだろうかと考え始めた。建築を理解することが、矮小化された「コンセプト」を受け取ること、痩せ細った解釈を引き受けることになってはいないだろうか。今の在り方が健全だと考えていいのか。そんな思いが胸中に浮かんだ。
大体、作者の説明するコンセプトを丸まま受け入れるなんて、安直過ぎる。これはこう考えて出てきた、なんて言葉を信じちゃいけないんだから。もしも本人がそう信じていたとしても、実はその人の意識しない所で、別のものから強い影響を受けていたなんてことがあるでしょう。目の前の花を描くつもりが、憧れを込めて理想化したイメージしか描けないということ。そんな見方をを否定すると、歴史解釈を全く受け付けないことになる。
でも世の中そんな話ばかり。なんでそんなに作者の意向を気にするのだろう。掃いて捨てる程うじゃうじゃ湧いてくるのに。好き勝手にお気楽な話をしていい気になってるのに。自意識過剰な奴ばかりじゃない。







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