建築家や大工棟梁を主人公にした小説はそれほど多くない。幸田露伴『五重塔』は文学史に名を残すめずらしい例だ。大工のっそり十兵衛の人情話が芝居がかった演出で語られる。俗っぽいところでは渡辺淳一の『ひとひらの雪』が建築家を主人公にしているが、仕事の内容にはふれず専ら不倫話に終わる。およそ建築家が何を求めてどんなことを感じているかに具体性がない。小説家には縁遠い世界らしい。
しっかりした構成の日本の小説を読みたいと思い、本屋に入ると有吉佐和子の名前が思い浮かんだ。テレビで紹介された代表作『華岡青洲の妻』が記憶に残っていたし、テレビドラマ化されたものも少し前に見たことがあったが、肝心の有吉の小説は読んでいなかった。探すと『華岡青洲の妻』は見つかったが、いつものように晩年の代表作がないものかと、カバーの見返しや巻末の著者紹介、既刊書の寸評に目を走らせた。さらりとした感触ながら的確な言葉遣いが欲しいのだが、そうなるまでには相当の年月がいるだろう。だから選ぶなら晩年のものと半ば決めてかかっている。
二、三の書棚をうろつくと有吉の作品では女性の生涯をテーマにしたものが多いと分かったし、出身地の紀州、和歌山にこだわりがあることが窺えた。そして、後期と思しき作品に江戸の材木屋を舞台にしたものがあった。それが有吉佐和子『真砂屋お峰』中公文庫 1976 (初出1974) だ。冒頭から斜めに読み飛ばすと、江戸の大火に始まり規矩術、遠近道印といった言葉が現れ、やがて大工棟梁の下で働く若い男が登場してきた。その丁寧に構成された、よくできた書き出しを読んで作家の力量を信用した。
この小説に描かれるのは、残念ながら大工職人の話ではなく江戸中期の建築経済であって、しかもそれが趨勢、雰囲気でしかない。まあ、詳細な描写を求めるのが酷だろう。それでも江戸の経済社会全体のイメージを提示して、町人の生活を感じさせるあたりは見事だ。しかも文章の表向きは経済の側面に集中させて、別の次元で展開する筋をあらかた隠して終いまでもっていく。飛び飛びになる場面場面が時の流れをつくってゆくが、さりとて主人公の腹のなかは見えてこないままに最後の局面を向かえる。物語はその間終始、女の機微や執着、弱さ浅ましさに彩られ、身にまとう衣装は具体をもって描かれている。
しかし、建築そのものはよくよく小説にならないのかと考える。図面を載せた上で、何を狙って各所の形を決めているのか。その説明の愉しさを軸にできないものか。建築家なんていつも考えと形の間を往き来しているのだから、その愉しみが出てこなくてはつまらないと思う。その点、ポール・オースター『偶然の音楽』新潮文庫115頁以降の建物案内およびミニチュア模型の描写はいい線をいっている。欧米の方が文化として根付いているのだろうな。
市蔵は愚痴に落ちた。小説は堪能したが期待は裏切られたからだ。どうすれば建築を分かってもらえるのか。ちょくちょく考えるがなぜかいい手が見つからない。今回、市蔵がわざわざこの小説を選んだのも手掛かりを求めたからだった。
もはや建築を受け入れてしまった市蔵には、大小様様な要素が構造を成して組み上がるイメージが頑なで、何事も建築になぞらえて体系化されてしまう。細かな仕組に触れることなく上からレッテルを貼って、それ以上近寄りもしないのに分かったような口振りをされると市蔵はすぐに顔つきが変わってしまう。力をもち人の上に立とうかという者に多いので、ますますそんなことでは駄目だという気持ちが収まらない。
しかし今回はお門違いではあるので、市蔵は建築小説の欲求を新たに感じたことで良とした。