現在職を探している萬年建築学生の文章。これを書くことで気持ちの整理、客観的な自己の見直しを期待。建築ネタに拘らない。
February 2006
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2006/02/19

ようやく 3D モデルで遊ぶ

casetta

予てから Linux に環境を移したからには KPovModeler を使ってみようと考えていた。レイトレーシングのレンダリング・ソフト POV-Ray のモデラーだ。むしろフロントエンドとして捉えるのが分かり易い。

少し手間取ったが、あれこれ試していく内に初歩的な操作が分かった。ただ、肝心のモデリングやレンダリングは、面白いものが出来なかった。頭の中で考えている時は、いいんじゃないかと思っていたことが、いざやってみると大したことはなかった。不満だが、これを更にいじくったところで、どうなるわけでもないだろう。そこそこ建築らしくなっているので切り上げることにした。

Filed under: 日日 — cova @ 19:48
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2006/02/18

アルコール依存症を内側から見る

addiction : ある習癖への沈溺、嗜癖

嗜癖というものは、気が付いてみると身近な問題だし深い話なのだが、かなり新しい概念だ。代表格はアルコール依存症。所謂「アル中」のことだ。他にも何何依存症と謂われるビョーキは沢山あるので、誰しも耳にしたことがあるだろう。麻薬中毒やドラッグの話もあれば、カフェイン中毒(参照)やセックス依存症なんてものもあったりする。それぞれ全く違ったことのように考えていたが、どうやらこれらを嗜癖という概念で括ると分かり易いらしい。この嗜癖という奴は、往往にして家庭内暴力、幼児虐待とも因縁があったりする。

そんなに重要なことが分かってきたのなら、その嗜癖の解明が進んでいるかと思うのだが、こちらの期待ほどは捗捗しくない。個人、家庭、社会の陰部であって執拗に隠される部分なので、オープンに扱えない。代表格のアル中だって、社会はその実態を受け止められないのだ。少しその病気について調べてみたら、空恐ろしくなる程アル中患者が見付かるだろう。あちこちで見掛ける困った酔っ払いは、程度の差こそあれ、ほとんどが正しく病気の域に達しているのだから。あの人もこの人も。えっ? アレもそうなの! といった具合に次次と思い浮かぶこと請け合いだ。(参照)ひどく重たい心持ちになる。あまりに重重しくなって逃げ出したくなる。

大して関わりのない人のことでも、そう感じる。身近な人はナオサラだ。しかし、実は本人が一番弱っている。弱りきって殺伐とした心境の奥深くに潜り込んでいる。ちょっとやそっとでは動かない。絶望的な状況が長く続き、誰しも疲労困憊する。

こうなってしまうと、周りは本人の言葉をまともに取り合わなくなる。これは、怒ったり意地悪したりということではなく、患者に振り回されては上手く対処できないのだ。当人の言葉に多くを期待しない、賭けたりしないのが大原則になっている。仕方がないが、しかし、これでは本人の気持ちが受け止められないし、知ることが出来ない。ましてや不毛の時を過ごして投遣りになっている患者なのだから、苦しみを吐露したい衝動があっても、伝える努力はすぐ失せる。酒呑みの心を知る機会などないわけだ。

中島らも『今夜、全てのバーで』(講談社文庫) 講談社 1994 (初出: 「小説現代」(講談社) 1990年10月号〜12月号連載)を読む気になったのは、冒頭からすぐにアル中の話が始まっていて、しかもそれが生生しく丁寧だったからだ。殊に症状や薬については専門用語をずらりと並べている。媚びず拘らずの文体で語られるだけに、何かが分かるんじゃないかという気持ちになった。確か中島らもって、と思い出して後書き代りになっている山田風太郎との対談の頁をめくると、やはり中島自身がアル中を自認していた。

中島曰く「ほとんど実話」のこの小説は、依存症患者が書いた自らの心の内だ。乾いた描写だし、読めるものに仕上っている。物語としての展開も考えてあって、私小説とも思えない。患者の頭の中では幻覚とリアリティが入り交じり、そこに呵責が絡んでいるのだという見解、アル中が悪いなら血や金や権力の中毒 addict はどうなるんだという一種の逆切れともとれる屁理屈、絶ったはずの酒が始まる様子、愛するものが同じ病に翻弄されていたことを知って溢れ出る感情。そうしたひとつひとつの場面が、読後感を埋め尽くす。

Filed under: 日日 — cova @ 02:30
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2006/02/12

トリノ・オリンピックの開会式はいかにもだった

トリノ・オリンピックの開会式が如何にもイタリアらしい演出だったので、ニヤニヤしながら観ていた。全体をひとつの物語としてまとめ上げる意識が弱く、散漫な印象が拭えない。それぞれの場面の質は高いのだが。独創的でさえある。

世界的バレエ・ダンサーは大きく美しかったし、あの老パヴァロッティも十八番をしっかり唱い切った。どちらも素晴らしいと思った。長年の訓練と経験に裏打された演技、演奏に個性が実を結んでいる。舞台の上でフェラーリを組み立て、アクセル・ターンをして見せるあたりは、イタリア人もやり過ぎだというだろうが、同時に、そうした過剰なまでのエンターテイメントというのも、お祭りの場ではまんざらでもない。

劇場に見立てた大きな額縁にワイヤーを張り、一群が白いぴったりとした衣装に身を包んでぶら下がりながら、くるくると器用に回転し上がり下がりをしてくれたパフォーマンスが殊に面白かった。あんなものは初めてだった。演者一群の息が合っていたし、くるりと体を回しながら位置を整え、わらわらと群がっては離散するのが、とてもテクニカルなものと映った。その苦労の割には華華しさが少し足らなかったのだが、徒労感の滲み出た熱演が好印象だった。そんなところがイタリアらしいと思う。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 12:26
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2006/02/11

ロマンチシズムを語る

ローマは遺跡と教会堂とパラッツォが犇めき折り重なる街だ。密集している。そして人がぞろぞろ動く。イタリアにあり、その首都だが、他の都市をまとめて代表するわけではない。古代帝国や宗教組織が居を構え、歴史と権力が互いを求めて今日のローマに至っている。そういうことだろう。慈悲はあっても譲り合いはない。そこで折り合いをつける。いつもぶつかりそうになるのだが。

中心部の至る所に古代の遺物がある。神殿跡の一画があり、大理石の柱が遺り。パンテオンなどは建物ごと遺っていて、今でも使われている。教会堂として、まさに会堂として機能する。その記憶の重なりたるや想像を絶する。よくもこれだけ集まり重なるものだ。そこに無常の感性はない。いつも同じものに重なる。そんな仕組だ。時を経ても同じもの。時空を超えて共有する。シンパシーだろうか。

だからローマは幻想をもたなければ見えないだろう。憧れが、垢抜けない雑然とした都市を、如何にもローマらしく映すだろう。そこに住んでいるものにとっても事情は変わらない。同じことがフィレンツェにもミラノにもヴェネツィアにもいえるのだが、ローマは権力との付き合いが古代より長きにわたっている。遺跡と教会堂とパラッツォが、こんなにも入り組んで密集しているところはない。時間も巻き込まれて、真直に進んではくれない。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 19:10
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2006/02/06

外国語教育について有名ブログが対立する

人気を誇る『内田 樹の研究室』の「まず日本語を」という言葉の教育について書かれたエントリーに対し、これも良く知られた『極東ブログ』が真向から反論をぶちまけた。教育の早い段階から外国語教育に力を入れるのではなくて、まずは母国語の運用能力にリソースを割くべきだとする内田氏の意見が、極東ブログ finalvent 氏には馬鹿げたものと映ったようだ。

私の意見は、はっきりと内田氏寄りである。ただ、これは教育プログラムをどうするかという論点ではなく、

論理的で音の響きのよい日本語の名文を繰り返し音読・暗誦・筆写せいとか、無意味だと思う。言葉というのは、まず誰かの言葉だからだ。言葉を愛するのではない。その誰かを愛することだ。愛というのは単純に言えば抱きしめることだから身体というものが要るのだが、不思議なことに愛というのはそこを少し超える。少し超えたところに肉声があり、その人の魂の声というものがある。

という finalvent 氏に与しないということである。

何故かといえば、外国でその外国語を身に付けようとした時に、自分の感情が上手く出せないのに困った経験があるからだ。全然その外国語を知らなかったし、使えないにも関わらず、その時は出来るだけ母国語を使わないようにと、頭の中で考える言葉さえその国の言葉にするよう自らを強いていた。到底無理なこととは知りながら、強迫観念に従おうとしていたわけだ。何か言葉が頭に浮かぶ度に、その国の言葉を探し、時には辞書をひいていた。つまり、考えや感情が言葉と繋がらない状態が続いたのである。

すると、感情が喉元で止まるようになった。「すごい!」とか、「悲しい↓」とか、「へぇ」とか、そういった言葉と共に出てきていた感情が、その時に体験するはずの感覚が失せてしまった。だから、フラストレーションが溜るばかりで、喜怒哀楽のリズムも流れも区別も、酷くこんがらがってしまった。そして日が経つにつれて、その事態を自覚するようになって空恐ろしく思った時に、感情は言葉なしには在り得ないと考えるようになった。そんな経験をよく覚えている。今もかなり強い印象を残している。

つまり私にいわせれば、言葉なしに愛することはないのだ。 finalvent 氏はいみじくも「肉声」という言葉を使って、言葉を越える領域を暗示している。しかし、「言葉にならない叫び」は言葉であり、文化によって意味が与えられたものだろう。異なる文化の言葉を理解することは不思議ではなく、その人が知らない何らかの理りを前提に「叫び」の意味を推し測るのも、言語活動を超えるものではないと言いたいのだ。それは、何ら共通点のない文化の間には成り立たない。

もうひとつ内田氏を支持する理由は、名文を繰り返しなぞることによって言語能力が高まるという考えである。これは、数ヶ国語を学ぶポリグロットと呼ばれる人達が採る方法だ。外国語の習得を苦手とする私の経験でも、大変有効だと感じている。また、言葉の感覚が鋭い人が古典や詩に親しみ、諳誦するまでになることがよくある。つまり、言葉が上手く使える人には、そういった傾向があるのだ。

こうした理由の他に、 finalvent 氏のこの日の文章は感情的な嫌いがある、と感じるのもある。私は必ずしも内田氏の意見に賛成するばかりではないつもりだが、こと言葉の教育に関しては両者の間に経験の差が大きく、その点を見誤っているとしか思えない。

Filed under: 日日 — cova @ 00:00
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