人気を誇る『内田 樹の研究室』の「まず日本語を」という言葉の教育について書かれたエントリーに対し、これも良く知られた『極東ブログ』が真向から反論をぶちまけた。教育の早い段階から外国語教育に力を入れるのではなくて、まずは母国語の運用能力にリソースを割くべきだとする内田氏の意見が、極東ブログ finalvent 氏には馬鹿げたものと映ったようだ。
私の意見は、はっきりと内田氏寄りである。ただ、これは教育プログラムをどうするかという論点ではなく、
論理的で音の響きのよい日本語の名文を繰り返し音読・暗誦・筆写せいとか、無意味だと思う。言葉というのは、まず誰かの言葉だからだ。言葉を愛するのではない。その誰かを愛することだ。愛というのは単純に言えば抱きしめることだから身体というものが要るのだが、不思議なことに愛というのはそこを少し超える。少し超えたところに肉声があり、その人の魂の声というものがある。
という finalvent 氏に与しないということである。
何故かといえば、外国でその外国語を身に付けようとした時に、自分の感情が上手く出せないのに困った経験があるからだ。全然その外国語を知らなかったし、使えないにも関わらず、その時は出来るだけ母国語を使わないようにと、頭の中で考える言葉さえその国の言葉にするよう自らを強いていた。到底無理なこととは知りながら、強迫観念に従おうとしていたわけだ。何か言葉が頭に浮かぶ度に、その国の言葉を探し、時には辞書をひいていた。つまり、考えや感情が言葉と繋がらない状態が続いたのである。
すると、感情が喉元で止まるようになった。「すごい!」とか、「悲しい↓」とか、「へぇ」とか、そういった言葉と共に出てきていた感情が、その時に体験するはずの感覚が失せてしまった。だから、フラストレーションが溜るばかりで、喜怒哀楽のリズムも流れも区別も、酷くこんがらがってしまった。そして日が経つにつれて、その事態を自覚するようになって空恐ろしく思った時に、感情は言葉なしには在り得ないと考えるようになった。そんな経験をよく覚えている。今もかなり強い印象を残している。
つまり私にいわせれば、言葉なしに愛することはないのだ。 finalvent 氏はいみじくも「肉声」という言葉を使って、言葉を越える領域を暗示している。しかし、「言葉にならない叫び」は言葉であり、文化によって意味が与えられたものだろう。異なる文化の言葉を理解することは不思議ではなく、その人が知らない何らかの理りを前提に「叫び」の意味を推し測るのも、言語活動を超えるものではないと言いたいのだ。それは、何ら共通点のない文化の間には成り立たない。
もうひとつ内田氏を支持する理由は、名文を繰り返しなぞることによって言語能力が高まるという考えである。これは、数ヶ国語を学ぶポリグロットと呼ばれる人達が採る方法だ。外国語の習得を苦手とする私の経験でも、大変有効だと感じている。また、言葉の感覚が鋭い人が古典や詩に親しみ、諳誦するまでになることがよくある。つまり、言葉が上手く使える人には、そういった傾向があるのだ。
こうした理由の他に、 finalvent 氏のこの日の文章は感情的な嫌いがある、と感じるのもある。私は必ずしも内田氏の意見に賛成するばかりではないつもりだが、こと言葉の教育に関しては両者の間に経験の差が大きく、その点を見誤っているとしか思えない。