prof. F の西洋建築史講義録は架空のものだ。大学では prof. F は様式史の形態で行った。
市蔵は、それを肯定する。
「他にどうすんの。様式史以外に何かあったと思うか。そら、今オレは様式なんちゅう考え方を邪魔やと思ってんで、せやけど歴史を教える時には、古い時代から段段と下ってくんのがオーソドックスな方法やろ。どうする。やっぱり時代を区切らんと話しにならんやろ。その時に、何で区切るかって言うたら、難しいで。」
市蔵は時代区分が必要だと訴える。時代を区切る時には、既成の概念を利用するのが穏当である。様式史による区分を使うことは問題がなく、建築史を学ぶには様式を理解すれば充分とする風潮に抗議するのだという。
「全く別個の話や。様式を定義して覚えたら、その時代を理解できるなんていうのは間違いや。様式は仰山ある歴史の見方のひとつでしかないし、そんなに広くカバーしてない。例えば『ゴシック建築の達成は、中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映したことにあると言える。』なんて真顔で言うやつがおる。パノフスキーの説を丸々信じとるわけや。何十年も前の、今は誰も見向きもせんようになった学説なんや。ところでこのパノフスキーの話には、イタリアのゴシックは勘定に入ってへんはずや。訊いたら、あれはホンマのゴシックやないとか言うやろな。他にも勝手に除外されてるのは一杯ある。実際には様式の美しい発現として認められた数少ない例から、定義を考えてる。そうとしか思われへん。そやから恣意的な概念なんや、様式は。大体ゴシック建築をその時代の目的みたいにゆうのが可笑しい。」
「様式史の考え方は時代精神っちゅうのを前提にしてる。そんな仮想のキャラクターが時代や様式、終いには作品までつくってるみたいに言いよる。何でもかんでも時代精神が様式でコントロールした結果やなんて、そんな話、信用でけへん。考えてみ。現代の、今生まれてるとこの建築を、同時代の人間が見て、ある様式の実現を目指してるなんて思えるか。皆そんなことしてんのんか。ちゃうやろ。そら、どうしても限界が超えられへん、一定の枠に収まってるってゆわれたら、否定し難いで。だからってゆうて全部が全部、誰も彼もが一般的な社会の枠組みに囚われてるわけちゃうで。中には吃驚するようなことをする奴もおる。特に時代を代表するような奴はただモンやないで。枠ん中に収まりきらんようなトコがあるんちゃうの。」
「prof. F の西洋建築史講義録は、時間軸とか、様式とか、今までの講義が前提にしてたモンを全部引っ繰り返してるのが凄い。その上で、歴史だけやのうて建築全体のテーマを設定して、色んなことをあっちこっちから集めてる。ようやるで。」
prof. F の講義録が架空のもので、実際に講義されていない点を市蔵は心配する。まだ何も知らない者が、このプログラムで上手く学べるのか。すっと頭に入るのか。既にネット上で公開されてから時間が経つが、リサーチは行われていない。このプログラムは、寧ろ建築史に興味を持つ人が、従来のシステムで学んだ時の枠組みを抜け出すのに役立っているのだろうと、市蔵は考える。