pallalink 展示会の「アーティストトーク」のことをまとめておきたいし、サッカー日本代表のこともあるが、他にも考えることがあって、同時には上手くいかない。同時に幾つかの考え事を抱え込むことは出来ても、同時並行で解決するのは無理だ。
今日はポール・オースターにかかる。映画「スモーク」を観て、更に「ルル・オン・ザ・ブリッジ」も観て、どちらも魅力的だったので小説を読む気になった。「ルル」のヒロインを演じた Mira Sorvino に惹かれたのも一因だ。あの女性をあんな演出で見せるなんて、いい趣味してるよなぁ。きっと、小説でも気になる女性が出てくるんだろう、と考えたからだ。
ネットで調べてみると、オースターの小説には「ニュー・ヨーク三部作」と呼ばれるものがあって、これが起点になっていることが分かった。駅前の本屋に出向いてみると、初期のエッセイなどを集めた文庫本があった。こちらが目指すのは「オースターが何をしたのか」なので、手探り段階のものでは不満だから買うのは止めておいた。ただ、拾い読みはしてみたら、詩作や翻訳にも手を出していた。試行錯誤の彼の文学への関わりに好印象が残った。
それから二、三日してからだったと思うが、出先で本屋によって『シティ・オヴ・グラス』文庫版を買い込んで、ようやく読み始めたが、すぐに夢中になった。恐らく原文のスタイルの所為があるだろうが、翻訳でも文章がすっきりしていて読みやすい。だが、話の構造は凝っていた。必要なことは漏らさないが、状況を一揃いで説明するつもりもない。小説家が意図するところはきちんと繋がっているが、それ以外のこと、整った体裁に拘らず、中心に関わらないことが丁寧に避けられているわけだ。その辺りは見事だ。
「三部作」を短い期間で読み上げたが、要は探偵小説の形を借りた新手の私小説だった。「私」を外から描写するといった単純なものではない。小説家の人格が幾つかのキャラクターに整理され、クィンやクィン扮する「ポール・オースター」や「実在の作家ポール・オースター」、依頼者「ピーター・スティルマン」、その同姓同名の父親である「ピーター・スティルマン」、私立探偵ブルーやブルーに監視されるブラックや、失踪小説家ファンショーや、そのファンショーの作品を託された文筆家の「僕」となって互いを監視しながら、相手に怒りや苛立ちを抱く。小説家の内へ向いた関心が、丁寧に、しかし執拗に分析されたのだろう。直感的に、長い時間の中で少しずつ理知的な作業が進んでいった過程が思い浮かぶ。何れの小説でも部屋に閉じこもってほとんど人と話をせずに数ヶ月を過ごす主人公達が描かれているし、その間に主人公の恋人は愛想を尽かす。オースターのエッセイを荒っぽく斜め読みした限りでは、それは彼の実生活での体験に基づいていたようだ。挿話を彩る船員や作家の生活の細かな描写も生気がある。
そして、何よりも主人公達は、閉じ込められていることが堪らなく嫌になり、そこから抜け出すために、それまでに培った全てを投げ打つのだ。
この主題を巡って、オースターの文章は空間描写を続ける。都市も描く。簡潔で明晰だ。はっきりとイメージされる。だが、そこに愉しみはない。文体の愉しみは筋には関係が無いから必要がないのだろう。まるで第二作『幽霊たち』でブルーが説明する報告書の書き方に従ったかのようだ。
… 話は簡単だ。ノートに書きためたメモにもう一度目を通して記憶を新たにし、重要なポイントに下線を引く。無関係な箇所を削り、核心の部分には修飾を補う。こうして、首尾一貫した一個の全体をつくり上げるのだ。彼が書く報告書では、行為がつねに解釈の上位に立つ。たとえば-誰それはコロンブス・サークルからカーネギー・ホールまで歩いていった。天気などは問題にしない。交通量にも触れないし、その誰それが何を考えていたのか想像をめぐらしたりもしない。報告書は既知の、証明可能な事実に自らを限定する。決してその境界線の向こうに行こうとはしない。 (柴田元幸訳新潮文庫版26頁)
解釈を押さえ込むが故に、文章が明晰になり、同時に自我も抑圧される。そうして出来た文章は、主人公達が苦しむ自我の問題を、言葉と空間のもつ拘束力に暗示させる。文章を書く己を査定する別人格の自分。理知的に整理しても、その構造は閉塞する。その問題に次第に深く埋没するようになり、やがて主人公達は捨て鉢な行動に出るのだ。ようやく第三作『鍵のかかった部屋』の最後になって、出口に辿り着く。つまり、名前の効力を探し当てたのだ。ストーリーテリング、嘘でも誠でも関係のない挿話を認めることによって、別人格の自分の抑圧を逃れたという訳だ。報告書では嘘はいけないが、物語に真偽は関係がない。だからと云って報告書の書き方で物語をつくるのは問題ないし、そうすることによって明晰な文章ができることに違いがない。上手いやり方だと思う。
「三部作」そのものに挿話が多いし、映画でも沢山挟み込まれている。こうしてみると、オースターがポーと『ドンキホーテ』に関心を寄せているのに納得がいく。