現在職を探している萬年建築学生の文章。これを書くことで気持ちの整理、客観的な自己の見直しを期待。建築ネタに拘らない。
June 2005
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2005/06/28

「離婚弁護士II」が終わってしまった

毎週楽しみだったんだ、あのドラマ。天海祐希の啖呵が小気味よくはまってたし。もともと天海は好きだったんだけどね。くどくなく弱くない演出が絶妙だった。弁護士事務所の室内セットもなかなか。ドラマの骨格は、「アリー、マイ・ラブ♥」を真似したんだろうけど。最後の二、三週分は上手くまとまってたね。

ん? そう、始めのうちは駄目だったよ。佐々木蔵之介も津川雅彦も役作りに苦労してたし、瀬戸朝香は真面目にキツイ人を演じ過ぎてたから、楽しめなかった、正直。戸田恵子もねぇ、演出とは云え、ウザイ感じに映ってた。キャスティングは悪くなかったんだけど、キャラクターを創り過ぎてたんじゃないかな。

そんな中で、毎週のように山場を迎えたところで、吾等が雨宮貴子弁護士が威勢良く啖呵を切るのが痛快で、気に入ってたんだ。いかにも東京の人って感じのテンポの良さ、気風の良さ。あれ、好きなんだ。スパッとね、やってくれるでしょ。軽ささえ感じる切れ味の良さ。おぉ、やってくれた、って思う。そんな瞬間が小気味良いんだ。

捻くった話よりも、オシバイの愉しみって、そんな感触、後味だよね。

Filed under: 日日 — cova @ 23:40
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ユダヤ文化を巡る微妙な言葉遣いを少し学ぶ

ようやく、懸案のものを脱稿して送った。ひと段落にしたい。

今日は友人Sと暫く談笑した。先週は先週で、この一年ほどの仕事を総括したが、それをまとめるのが何とも気が進まず、この歳になって、そんなこともすんなりと出来ないのに反省したと話したら、誰もそんなものではないか、あの prof. F だってそうじゃないかと、慰められた。そんなものかという気持ちもあるが、時と場合によってはすっかり別人になり切って、違ったやり方も出来るようになりたいという願望が、今回も果たせなくて少少がっかりしている。

いつもヲッチしている内田教授のブログを覗いたら、『文學界』に連載中の「私家版・ユダヤ文化論」が「対偶証明法」による論証を多用しているのが面白いとする批評に、教授が反応していた。興味をそそったので、図書館へ寄った際に連載の初回と第二回を読んだ。教授は、読み下しやすい文章で、ユダヤ文化に取り掛かるための枠組みを提示していた。ただ、それに手間がかかるので、個別の話には行き着いていなかった。第3回以降になるのだろう。

昨今は、投資に関する格言をユダヤの伝統に求めることが多い。巨万の富を蓄えるユダヤ人バンカーのイメージが強く、その成功に続こう、あるいは、肖ろうと云う主旨だろう。だが、ユダヤの格言には解釈を助ける説明が付き物だ。それだけでは解り難いのだ。日本人的な考え方をすると、その解釈に奥儀があるのではないかと疑うだろう。表には現れないところで、後継者にだけ秘伝が伝えられると考える。一握りのものが、ユダヤ文化を受け継いで成功しているから。

資産や富の話とは別に、ユダヤ系作家も興味深い。Paul Auster や Jerome David Salinger がいる。どちらも、文学を必要とし、可能性を信じ、愛し、語る。自らも活動する。どちらの作家も、自分に問いかけるキャラクターを創り出す。というか、そんなのばかりがゾロゾロしている。作者を投影する文学好きの人物が話の中に出てくる。最近、オースターのエッセイ集を読んでいるが、読み進めるに従ってオースターのユダヤ系作家に対するどうしようもない思い入れが浮かんでくる。飽くなき葛藤に身を捧げる、そんな同胞への畏敬の念を感じている。

色色な言葉やイメージを見聞きするにもかかわらず、ユダヤ文化は分からないと考える。およそ与り知らないところで伝統が受け継がれていると想像する。だが恐らくは、誰もが目に出来るものしかユダヤ人も知らないのではないか。それを引き受けるかどうか、自分のことと考えるかどうか、好むと好まざるとに関わらずどうしても同胞と考えざるを得ない、そんな状況にあるかどうかが、ユダヤ文化が分かる分からないに直結しているのだろう。

Filed under: 日日 — cova @ 01:19
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2005/06/18

チームを揺さ振る中田の言動が興味深い

コンフェデレーションズ・カップになって、日本代表チームの心理状態が変わった。一様に安堵の面持ちだ。ワールド・カップ出場を決めたことが大きい。メンバーの入れ替えもない。

一人中田は、対北朝鮮戦直後から自らのチームに挑発を繰り返す。マスコミのインタヴューに応えて、レヴェルが高くないと言い放ち、今度はチームメイトのプレーに煩く注文をつけないとコメントする。そして迎えたコンフェデの第一戦、対メキシコ戦ではプレイが変わった。打って変わって守備面でサボることが多かった。修正したはずの、最終ラインの前にスペースが空く問題が再発して、敗因となった。チームメイトの中村や小笠原の不満が報道されている。

この春からは「一対一」の重要性を主張するが、一方で中田は去年以来コミュニケーションの問題を重要課題だと指摘し続けている。合宿中、試合中に意識的に中田が声を上げて一応コミュニケーション問題がクリアされた。それでワールド・カップ予選を通過した。しかし、他の選手はコミュニケーションが問題とは考えていない。同じイタリア・リーグ、セリエAで活躍する中村にも、問題意識は弱い。柳沢は、イタリアで二年プレーして大分変わったと云われるが、コミュニケーションについて中田と同じ立場かどうかは分からない。精神面を重視する監督ジーコが、どう見ているのかも分からない。

果たして、コミュニケーションは結果を左右する問題なのか。中田の状況分析は正しいのか。日本代表チームあるいはメンバーの各各は、提起された問題にどう対処するのか。強豪が集まった大会に参加している現状で、基本的な問題が突付かれて、成績が残せるのか。

予断を許さない、とてもドラマチックな局面を迎えている。

Filed under: 蹴鞠 — cova @ 16:39
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2005/06/11

今度は花菖蒲が咲いて

花菖蒲

蕾が解けて、大きな花弁が垂れる。紫が鮮やか。高く上がった陽が夏を思わせる。もう端が縮み始めている。風で大きく揺れる紫の色。

園芸というのか、植物の栽培を上手くするには、それぞれの種の原産地を調べ、基本的な性質を把握しておくのがよい。そんなことを幾つかしていると、在来種へのこだわりに気付いた。幼い頃からずっと外国に興味を持っていたが、いつの間にか方向が逆になっている。花で云えば牡丹が好みだし、品種にも依るが菊も綺麗だと思うようになった。かつては仏花のイメージでしか見ていなかったのに。

自分のクニへの意識はややこしい。右とか左とか云う話になるし、親や教師が総じてリベラルを気取っていた時代に育ったから、クニの枠を超えるべきだと考えていた。

偉人の伝記は欧米人を中心に読んだ。推理小説は海外のものに限るといって聞かなかった。ホームズやルパンに出会ったし、もう少し後にはエラリー・クイーンに夢中になった。だから、「Wの悲劇? やめろよなぁ」と思っていた。音楽はアメリカのヒットチャートを追いかけたし、ジャズやクラシックに手を広げていった。こういった趣向は、そもそも子供の時分に、飯、味噌汁、漬物よりもパンにマーマレードを塗る方が嬉しかったことから始まっているだろう。終いには西洋の建築史に入れ揚げている。

しかし、その辺りから雲行きが変わった。芝居見物に興味を持ち始めると歌舞伎に行き当たり、今は能をテレビで見ても楽しめる。小津安二郎に始まり、やがて丁髷ばかりの映画を続けて観ていたり。映画だけではない。以前はどうも受け付けなかった日本の宗教画を見ても、今はその美醜を云云するのに躊躇いがない。何かの時に台所へ立てば、野菜を煮炊き、醤油や味噌を加える。この間は、焼き麩の芳ばしさを新鮮に感じたばかりだ。飯も豆腐も食い飽きない。

果たして自分は、原点に戻ってきたのか。それとも西洋かぶれが酷くなって、あちらの目でクニを見ているのか。改めて見詰める自分の環境が、これまで無意識だったもので、今も尚、大部分は意識の底に静かに横たわるのか。

もともと自分の帰属意識は強いと感じていた。自分が所属しているところ、していたところ、どちらも誰かが非難するのを聞くと黙っていられなかった。その直前に自ら貶していても。

憧れていた外国へ近づいて、眠っていた、偽っていた本性が頭を擡げたか。

Filed under: 日日 — cova @ 00:04
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2005/06/08

ジーコが酷い審判に怒るのも無理はない

ワールド・カップ本大会出場がかかった対北朝鮮戦の前に、バーレーン戦の審判について悪口をどうしても云いたい。あれ、酷かったよ。主審も副審も。

  • 主審: スブヒディン (MAS)
  • 副審: サイード (MDV)
  • 副審: ヤコブ (MAS)
  • 第4審判: アブドゥル・ハミド (MAS)

日本代表にはサントス、中村、中田にイエローが出たけど、どれも不当だった。サントスの時は、直前のペナルティ・エリア内の相手のファウルを無視して流しておいて、まだ更にサントスがボールを保持し続けたらシミュレーションとするとは、ほとほと呆れた根性だ。中村、中田の時は、どちらも2mほどの、すぐ近くで見ていながらの判定。バーレーンの選手がファウルしたかどうかは関係なく、日本代表側がコンタクトしたかどうかで決める。どう見ても、どう考えても、意図的にバーレーンを有利にしていた。あんな審判でいいのなら、訓練や経験を積む必要がない。何のスキルもいらない。全く馬鹿にしている。

副審も二人とも同罪だ。前半戦、バックスタンド側の副審は、日本の二人が DF の裏をきれいに取ったのを見てから、オフサイドの旗を揚げた。スローのリプレイを見ても、明らかに間違った判断だった。オフ・サイド・ラインの1メートル弱手前にいたのだから。一方、メインスタンド側では、長いボールが入ったところにやってきた宮本の右腕、肘を掴んで倒したのに無反応。別の時には日本のファールを催促していたから、ダブル・スタンダードで判断していたのがはっきりしている。

日韓共催のワールド・カップから酷くなったと思うが、疑惑の審判がまかり通っていて腹立たしい。勿論、腹立ちの直接の切っ掛けは日本代表がハンディを背負い、怪我を負うことだが、それだけでもない。ゲームの面白さが吹っ飛んでしまうのにも憤っている。試合の組み立て、選手個人のプレー、予断を許さない展開などなど、サッカーの醍醐味が台無しになるじゃないか。それに、こんなことでは折角勢いがついているアジアのサッカー熱が、良からぬ方に向いてしまって無駄になるだろう。いや、何よりも審判がゲームの邪魔をするなと云いたい。

で、タイでの対北朝鮮戦のアウェー・ゲーム。雨の心配も良いが、審判も気になっている。気になること自体が癪だが。ともかく、わざわざベルギーの審判を頼んだようだが、どんなジャッジをしてくれるだろうか。今年はドイツでも審判の買収が明らかになったし、ヨーロッパから呼んだからと云って安心できない。

その辺を見てるので、いいトコ見せてくれよな。

Filed under: 蹴鞠 — cova @ 00:38
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2005/06/07

ポール・オースター「ニュー・ヨーク三部作」に私小説の可能性を見る

pallalink 展示会の「アーティストトーク」のことをまとめておきたいし、サッカー日本代表のこともあるが、他にも考えることがあって、同時には上手くいかない。同時に幾つかの考え事を抱え込むことは出来ても、同時並行で解決するのは無理だ。

今日はポール・オースターにかかる。映画「スモーク」を観て、更に「ルル・オン・ザ・ブリッジ」も観て、どちらも魅力的だったので小説を読む気になった。「ルル」のヒロインを演じた Mira Sorvino に惹かれたのも一因だ。あの女性をあんな演出で見せるなんて、いい趣味してるよなぁ。きっと、小説でも気になる女性が出てくるんだろう、と考えたからだ。

ネットで調べてみると、オースターの小説には「ニュー・ヨーク三部作」と呼ばれるものがあって、これが起点になっていることが分かった。駅前の本屋に出向いてみると、初期のエッセイなどを集めた文庫本があった。こちらが目指すのは「オースターが何をしたのか」なので、手探り段階のものでは不満だから買うのは止めておいた。ただ、拾い読みはしてみたら、詩作や翻訳にも手を出していた。試行錯誤の彼の文学への関わりに好印象が残った。

それから二、三日してからだったと思うが、出先で本屋によって『シティ・オヴ・グラス』文庫版を買い込んで、ようやく読み始めたが、すぐに夢中になった。恐らく原文のスタイルの所為があるだろうが、翻訳でも文章がすっきりしていて読みやすい。だが、話の構造は凝っていた。必要なことは漏らさないが、状況を一揃いで説明するつもりもない。小説家が意図するところはきちんと繋がっているが、それ以外のこと、整った体裁に拘らず、中心に関わらないことが丁寧に避けられているわけだ。その辺りは見事だ。

「三部作」を短い期間で読み上げたが、要は探偵小説の形を借りた新手の私小説だった。「私」を外から描写するといった単純なものではない。小説家の人格が幾つかのキャラクターに整理され、クィンやクィン扮する「ポール・オースター」や「実在の作家ポール・オースター」、依頼者「ピーター・スティルマン」、その同姓同名の父親である「ピーター・スティルマン」、私立探偵ブルーやブルーに監視されるブラックや、失踪小説家ファンショーや、そのファンショーの作品を託された文筆家の「僕」となって互いを監視しながら、相手に怒りや苛立ちを抱く。小説家の内へ向いた関心が、丁寧に、しかし執拗に分析されたのだろう。直感的に、長い時間の中で少しずつ理知的な作業が進んでいった過程が思い浮かぶ。何れの小説でも部屋に閉じこもってほとんど人と話をせずに数ヶ月を過ごす主人公達が描かれているし、その間に主人公の恋人は愛想を尽かす。オースターのエッセイを荒っぽく斜め読みした限りでは、それは彼の実生活での体験に基づいていたようだ。挿話を彩る船員や作家の生活の細かな描写も生気がある。

そして、何よりも主人公達は、閉じ込められていることが堪らなく嫌になり、そこから抜け出すために、それまでに培った全てを投げ打つのだ。

この主題を巡って、オースターの文章は空間描写を続ける。都市も描く。簡潔で明晰だ。はっきりとイメージされる。だが、そこに愉しみはない。文体の愉しみは筋には関係が無いから必要がないのだろう。まるで第二作『幽霊たち』でブルーが説明する報告書の書き方に従ったかのようだ。

… 話は簡単だ。ノートに書きためたメモにもう一度目を通して記憶を新たにし、重要なポイントに下線を引く。無関係な箇所を削り、核心の部分には修飾を補う。こうして、首尾一貫した一個の全体をつくり上げるのだ。彼が書く報告書では、行為がつねに解釈の上位に立つ。たとえば-誰それはコロンブス・サークルからカーネギー・ホールまで歩いていった。天気などは問題にしない。交通量にも触れないし、その誰それが何を考えていたのか想像をめぐらしたりもしない。報告書は既知の、証明可能な事実に自らを限定する。決してその境界線の向こうに行こうとはしない。 (柴田元幸訳新潮文庫版26頁)

解釈を押さえ込むが故に、文章が明晰になり、同時に自我も抑圧される。そうして出来た文章は、主人公達が苦しむ自我の問題を、言葉と空間のもつ拘束力に暗示させる。文章を書く己を査定する別人格の自分。理知的に整理しても、その構造は閉塞する。その問題に次第に深く埋没するようになり、やがて主人公達は捨て鉢な行動に出るのだ。ようやく第三作『鍵のかかった部屋』の最後になって、出口に辿り着く。つまり、名前の効力を探し当てたのだ。ストーリーテリング、嘘でも誠でも関係のない挿話を認めることによって、別人格の自分の抑圧を逃れたという訳だ。報告書では嘘はいけないが、物語に真偽は関係がない。だからと云って報告書の書き方で物語をつくるのは問題ないし、そうすることによって明晰な文章ができることに違いがない。上手いやり方だと思う。

「三部作」そのものに挿話が多いし、映画でも沢山挟み込まれている。こうしてみると、オースターがポーと『ドンキホーテ』に関心を寄せているのに納得がいく。

Filed under: 日日 — cova @ 01:39
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2005/06/01

薔薇の咲く季節がやってきた

薔薇

もう六月だ。皐月が彼方此方の庭で咲いているが、薔薇もまたシーズンを迎えている。「薔薇色の…」と云うが、気候がいい時期でもあるから、清清しく晴れた日に濃い緑の中に咲く艶やかな色を見るのもいいものだ。

大阪の中之島には薔薇園があって、色とりどりの花が咲き乱れている。先日北浜へ行く前に寄ってみた。ちょうど難波橋の東側に広がっている。ほとんど奥へは行かずに、出来るだけ小さく回ったが、あれほど咲いているとなかなか壮観だ。

しかし、薔薇は家にも咲いていて、薄いローズの色の花がぽつぽつと開いていく。世話もしないままに高く立ち上がってしまったのだが、花は枝が伸びた先に天を向かってつくので切るのが大変になっている。

そう云えばどんな世話が要るのだろう。そう思ってネット検索をした。植物栽培、園芸にはトンと縁がなく、手元には小学生向きの図鑑がただ一冊あるだけなのだ。趣味の分野は、情報があるだろうと踏んでいたが、果たしてすぐに思い描いていたようなサイトに行き着いた。有り難い。

そうやって初めて知ったのだが、「近代の薔薇」は数種類の野生種を交配して出来たのだそうだが、何と、中国や日本原産の植物がほとんどだとか。そして黄色は、日本では既に17世紀に栽培されていたが、ヨーロッパでは19世紀になってからだそうな。

おやまぁ、薔薇って東洋のものだったのかと、驚いた。そうなってみると、あの緑濃い葉も日本の庭に馴染むような気がしてきた。もう全くの園芸種となっているが、日本の気候で問題がないし、四季咲きでよく花をつけるのが庭にあるのはいいと思う。色は、そうねぇ、濃い黄色が綺麗だろうか。

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