現在職を探している萬年建築学生の文章。これを書くことで気持ちの整理、客観的な自己の見直しを期待。建築ネタに拘らない。
May 2005
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2005/05/29

文様になった都市の姿とその広がり

pallalink の見方を誤っていたので、修正したい。展覧会の印象だけで前に投稿したが、改めてサイトを見ていると、違ったものが見えてきたからだ。言い訳をすると、大きな作品をぐにゃりと曲げて見せることを優先していたので、展示点数が少なかった。フォトログとなっているオリジナルは、時系列でずるずる作品群を手繰る仕組みなので、別物だと感じる。その辺りに焦点を合わせようとしながら、曖昧で勝手な記憶に頼ったのが失敗の原因だった。

さて、何を間違ったのか。ひとつには “「本来のオブジェクト」を反射させて作品が創られている” としたことだ。彼の作品は、反射と云うような一回こっきりの反応ではなく、連続的な動作の産物なのだし、そんな言葉ではあの広がりを感じさせる空間を捕まえていない。あの広がりを云うには、反復の方がいいだろうし、「オブジェクト」の循環を捕まえるのが先決だ。

彼が案内書に云う「グレーゾーン」とは、普段振り向かれることのない都市建造物たる「本来のオブジェクト」のことだろう。と云うことは、作家は構図に挑んでいるつもりはないのだ。都市の中で彼が見つけ出した「オブジェクト」は打ち捨てられていて、そうした別段、意味が認められていないところを敢えて見つめる。見つけたものは彼にとっても深層を引き出すモチーフではあるが、関心は専ら反復プログラムへ向かっている。そう彼は云っている。

しかし、構図の概念、フレームという切り取りを揺るがしていることの方がずっと面白い。埒外をプログラムで埋めたことによって、境界が遥か彼方へ逝ってしまっていて、今は見えていないフレームの外側にも同じ姿が延々と続く感覚が新鮮なのだ。その所為か、中には一極集中の放射状の構図があるのだが、それでは振るわない。外へ行って薄くなるようだと駄目で、捻る様な具合ででも、安定して循環する冗長的な作品が魅力的だ。

また、その冗長によって、都市景観が文様と化している点も特徴だろう。全く人工的に作り出された意匠、唐草文だとか雷文だとかいった文様ならば見慣れているが、景観と化した建造物などと云う半死状態で埋もれたものをカメラで掬い、半分生っぽいままに文様にしたから気になるのではないか。しかも、一旦引っ張り出しておきながら、意味を剥奪して記号に貶めてしまう。見えていないものを取り出しておきながら、返す刀でぐしゃぐしゃにしてしまう。一人で勝手にぐるぐるやっている。自分の尻尾に噛み付くウロボロスのようだ、と云っては云い過ぎか。

作家にとって展覧会とはメルクマールだろう。基準、区切りであるはずだ。だから通過儀礼となり、フレームワークとなっても不思議ではない。それはずっと続いていることだし、悪いものではないのだが、彼が避けるのもまた仕方がないことだろうか。意味や形、存在といった古典の特徴を否定しようとしているのだから。ならば言説化と云う彼にとっての迷惑は、他のものに投げられているのだろう。そう考える。

Filed under: — cova @ 13:33
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おぉ、AgfaPhoto が倒産だ。どうしよう、黄昏だ。

黄昏の空

もう出来れば写真はデジタルにしたいと思って随分経つが、世の中的には既にシフトが大分進んでいるようだ。気がつけばアグフアが倒産した。使ったことがほとんど無いので、アグフアのフィルムが消えたとしても大した感慨はないが、銀塩のコストが高くなる予兆だと困るなぁ。

パソコンを使うようになって結構な年数が経つし、それ以前から写真は好きだったので、デジカメの一つや二つもっていても可笑しくないのだが、色色と難癖をつけてしまい、これまで陸に買ったことがない。あるのは2メガとは云え携帯に内蔵されたのだけなのだ。合焦が遅いのが難点で満足はしていないが、今のところ専用が無くても済んでいる。

もう十年も前に一眼レフのレンズシステムが出来て、それに満足しているから、新しいものへ移りにくくなっている。今一番引っかかっているのは、24mmシフト・レンズをよく使うので、これと同等のものが無いと移れない、ということだ。もうこれがないと建築写真を撮る気がしない。重かろうが、ゴツかろうが必ず持っていくし、いつも使う標準レンズになっている。

一眼レフデジカメが普及しつつあるが、今のところ受光面が所謂 APS サイズで、レンズの焦点距離を1.4倍で換算しなければならない。つまり、折角の広角レンズの画角が狭まる。いや、本当は、35mmフィルム同等の受光面を持つデジカメも売り出されているが、値段が正に桁違いに高いので全く手が出ない。お手上げ。

コンパクトなデジカメでも、画角の広いものは限られている。積極的に広角レンズのものを出しているのは RICHO ぐらい。Caplio シリーズがそれだ。もう暫くの間モデルチェンジを繰り返して続いているから、売れているわけだが、他のメーカーが全く広角モデルに手を出さない。誰がどう判断しているのか知らないが、「広角はマニア向け」と考えているのだろうか。売れているシリーズがあるのに。馬鹿な話だなぁ、一人勝ちさせてるよ、と思っている。

つまりはメーカーが広角を軽視しているから、一眼レフデジカメでも相当広角の、しかもアオリができるレンズに当分の間配慮してくれそうにない。広角シフト・レンズにこだわれば、自ずと銀塩を選ぶことになる。

でもなぁ、フィルムも現像も高くつくし、フィルム・スキャナーでの取り込みにも満足できないからなぁ。人にはデジタルを薦められるし、興味もずっと持っているのに、あぁそれなのに待ち惚け。ま、時としてハードディスクをトバして、データを失うから、保存に関しては比較的安全な体制だから、と考えてこれまでのままを維持しているところ。そうは云っても、その内に皆がデジタルに移行することになると思うので、黄昏を感じつつ、その手のニュースのモニターを続けるところであった。

Filed under: 日日 — cova @ 00:49
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2005/05/26

photolog の在り方、そして、その彷徨い

pallalink.net は、写真の古典的な構図に揺らぎをかけている、そう深読みしてみる。そんな風に読めるのは、活動が log を媒介している所為としか思えない。どうしても一抹の座り悪さが残る、そんなものを介するあたりが、揺さぶりにピッタリきている。

“Creatures of the City” と題した展覧会のオープニング・レセプションへ行ってきた。招待状を読むと、「グレーゾーン」が彼の対象だという。

暫くの間会場に腰を据え、とりとめもなく辺りの人と話をしていたが、ふと間が空いたところで、プリントアウトを綴ったアルバムに目が留まり、改めて軌跡を確認する気になった。話していても、彼の活動のどこをどう評価するのか、その問題を解く糸口が掴めず、ごろごろとした気分を持て余していたからだ。

改めてアルバムを手繰ってみて思いついたのは、彼が材料にするのは白くトンだ部分や黒くツブれた部分じゃないのかという考えだ。ニューヨークの街角を撮った、「材料」段階のアルバムを見ていて気がついたのだが、「グレーゾーン」という言葉は正確ではない。グラデーションを十分に与えるのが難しく、すぐに埒外へ持っていかれる部分が、実際の操作の対象なのだ。そのとても繊細なところに「本来のオブジェクト」を反射させて作品が創られている。つまり、第一の工程は、すぐにトンでしまう領域を切り取ることであり、構図の後ろを掴むことだ。そして第二工程で、揺さぶりに出る。写真のもつ古典性即ち構図を弱めることに意義を見い出す。後ろに回った部分を敢えて前景にするのではなく、オブジェクトのコピーで埒外を埋めてしまって境界をズラすのだ。こうして「本来の」構図が虐められる。写真の最も基本的な力を否定する自虐といえる。

しかしそれをやると、今度は複写反射の設定が作品の主題になる。この主題の出現は、そのまま新たな枠組みとなって作者の前に現れる。そんな堂堂巡りとなってしまう。彼は、面倒のかかる堂堂巡りを意識の外にやって、かえってそこを彷徨う道についているらしい。

「言説化」という当世の理をスルーして、いちいちと一歩一歩の感触を喜ぶかのようだ。「何を目指すのか」、「何故そうなるのか」を言葉にして乗り越えるという「方法論」から体をかわす。その態度は、彼が抱えている問題に敏感になっている証なのか。

薄薄感じていたことにケリをつける。展覧会を催す、作品に仕立てるとは、そういうイニシエーションであるはずだ。しかし、彼が出して見せるのは作品ではなく、実は log なのだ。見せる必要も無い道程も晒して、作品個個のインパクトを弱める自虐が、そのまま彼のスタイルとなっている。しかも、全体を見取るには、彼に付き合って、それと分かるようには表現されていないものの、よくよく考えて分かる行く先を、こちらが見遣らなければならないようだ。

彼に惹かれるのは、そうしたからくりの所為だ。だが果たして、こんな言葉を投げかけてみたところで、お互いに立ち位置の捩れをボンヤリ見返すだけなのかもしれない。

Filed under: — cova @ 01:37
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2005/05/24

ストーリーテリングってこういうこと? と考える切っ掛け

テレビでポール・オースター原作脚本の映画「スモーク」を観た。ニュー・ヨークって、ブルックリンってこんな感じなんだろうな、と強く感じた映画だったし、幾つものエピソードが小説家と友人との会話に出てくるのを見ていると、原作者が物語りに強く惹かれているのではないかと気になった。ざっくり割られた感覚がする。

演出なんか無くても、話すことの中に面白いことがある。中でも「嘘」は基本的で興味深いこと。人と人の感情を「嘘」でできた話が紡いでいく確かさ。

「運命的出会い」も誰しも共感を覚えるポイントだけれど、「スモーク」の中に出てくるような、少年や小説家がついうっかりやったことに思いもかけず大きな代償を払う展開も、子を想う親の、そして親を想う子の泣きたくなる感情も、ストーリーテリングの世界へと導く道標なのだろう。

Filed under: 日日 — cova @ 01:23
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2005/05/23

メンタリティの違いを大きく感じる時

昨日のサッカー、キリンカップ、対ペルー戦の日本代表にがっかりした。「国内組」を並べて試合を始めたが、ボールが敵陣に近づかない。最終ラインとヴォランチをボールがうろうろするばかり。あれではキーパーに川口を起用した意味が薄れる。出場した選手たちは、何故「国内組」と呼ばれ続けるのか分からないのだろうか。FW鈴木は南米も欧州も両方の経験があるというのに、「海外組」には入れてもらえない。

今の日本代表チームの中で、それこそ構造的な問題となっているのは、トップレベルをそのまま目標にする中田英寿に代表される姿勢、考え方を共有できるかどうかだ。昨日の試合中、選手達が目指すべきものを意識していたとは思えない。難しいからやらない、その工夫も向上心もない態度が支配的になれば、そりゃあ点が取れない。ジーコは全く違うメンタリティだから、シュートを重要視しているが、「国内組」だけになると士気が上がらず、もうそれはつまらないゲームを繰り返すのは、もっと根本的な問題なのだ。ひょっとするとジーコは、それを言っても始まらないから口にしないのかもしれないが。

上手い奴が試合に出るよりは、長期的に「勝てる」選手になる奴を観客は歓迎する。いいゲームを見せて欲しい。

Filed under: 蹴鞠 — cova @ 09:34
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2005/05/21

大阪市改革に腕を振るう姉御への期待

世間では「大阪市職員厚遇問題」と認識されているようだが、今、大阪市が取り組んでいるのは人事や厚生福利に限られた問題ではない。正に、根幹に関わる改革が、大阪市助役の大平光代という若い政治家によって進められている。

その名前にはユニークな経歴が枕詞でついてくるので、ややもすると色眼鏡で見られがちだが、「本間外し」の手際といい、現業職員への締め付けといい、議員からの口入れへの対策といい、大変的確で手際がよくて、惚れ惚れとしてしまう。至極真っ当な考え方をすれば、誰もが当然突き当たる問題ばかりだが、一通りの困難は覚悟していても辟易とする面倒や混沌があるはずだ。しかし、彼の助役は大胆かつ周到な斬り込みを見せている。感心するというより敬服する。

ある程度内部事情を垣間見れば、現業職員≒大阪市従業員労働組合員が大阪市を内部から食い荒らしている図を思い描く。闇年金や闇手当て、果ては労働組合幹部の専従および金品支給といった歪んだ形態は、雇用者である大阪市庁と被雇用者の圧力団体たる労働組合の癒着の中ですすめられた、頭隠して尻隠さぬ御手盛り談義の成果だろう。

マスコミは役所叩きが大好きだが、決して本丸へ届く弾は撃たない。今回の労働組合への締め付けを悪く描こうとすればそれは簡単なはずだ。そうでなければ、「大阪市職員厚遇問題」を論うとおり、諸手を打って歓迎してもいい。しかし、実際には声は大きくなく、スルーに近い調子である。やだねぇ。公務員のボーナスの支給日や平均額は、毎回恒例で伝えるくせになぁ。人の財布の中身をそんなに興味心身で見ているなら、是非自分達の給与との比較を教えてよ。一般じゃなくてマスコミとの比較でね。

そんな話はさて置き、これまでは期待していなかった大阪市の改革だが、これほど的確な手を打ってこられると、俄然期待してしまう。だって、少し内情を知っていて、とてもじゃないが出来るものでもないな、と思っていたから。

役所の金に集ろうとするものはろくでもないのばかりだと思っている。内部からしゃぶり付くのもそうだし、「正当な対価」として持っていくのもそう。社会保障の金も油断をすると必要の無いところへ逝く危険は充分にある。

世の建築家も役所を散散貶す割には、公共工事が欲しくて欲しくて仕方がない。受注した後は、なんだかんだとまた悪口を言ったり、失敗の責任を押し付けたりするが、金はしっかり当てにする。何なんだそれは。景気が悪くなろうが、デカイ仕事が欲しかろうが、お上に楯突くならとことんやってくれよ。

兎に角、役所に税金絡みで集まる金は、内外からの様様な圧力の下で分配される。その地獄絵図は想像を絶する。欲望や虚栄、憎悪、怠惰、高慢、そんなものが入り乱れる。びびって気後れしても不思議はない。然るに若手助役はお見事なお手並みを見せているのだ。期待するじゃないか。ざっと見たところ、ブログでもあまり取り上げられていない。そこで敢えて、何の役に立つのか分からないが、謹んでエールを送りたいと考えた次第だ。

Filed under: 日日 — cova @ 00:49
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2005/05/19

Live-CD で 64bit OS を試す

特にコンピュータに関して詳しいわけではないが、新しいものを耳にして気にする時がある。64bit 処理系は、ずっと欲しいと思っていた。NX ビットといったセキュリティにも大いに興味を持っていたが、何と云っても大きなリソース、ポテンシャルを備えた環境で作業できるということが、やっぱり最大の魅力だ。

何故だかひょんなことで引っかかって処理が止まってしまうことも、今の 32bit 環境ではチョコチョコ起こる。因みに Windows での話。「なんだそれは」と云われても、現に目の前でチョコチョコと引っかかり止るのだから仕方がない。それが 64bit Windows XP では激減した。別のタイミングで処理が止まることあるが、概ねは問題なく処理してくれる。

問題は、ドライヴァーだ。プリンター+スキャナー複合機を始め、フィルムスキャナーもサポートがまだない。勿論、64bit のアプリも充実して欲しい。特に 3DCG の関係。Pov-Ray は既に出回っているようだが、連携するモデラー、シェーダーも含めた環境が欲しい、そう願う。

何とか早く 64bit の環境を手にするには、Linux が現実的だと思うが、普段使う PC は安定第一が金科玉条なので、そう易易とインストールする気にはならない。そこで Live-CD が出てくるのだ。

直接の切っ掛けとなったのは Ubuntu というディストリビューションを知ったからだ。ふらふらとサイトへ行ってみたら、Live-CD の 64bit 版がアップされている。では試してみるか、という次第だった。実はその前には Knoppix 64 を落として焼いたのだったが、旧いヴァージョンだったので、我がマザーボードのチップセットを知らないと告げて止まってしまった。かくして OS が立ち上がることがなかった。ところが Ubuntu はあっさりと立ち上がってくれた。デスクトップにアイコンが殆どなく、CD ドライヴのアイコンがあるだけ。見た感じでは、画面上に張り付くメニューバーの所為で Mac のデスクトップに近い気がした。デザインも、アンバー系の色を使っているのに好感を持つ。日本語の表示も難なく処理。後は日本語入力さえ整えれば、結構ご機嫌に使えそうな感触だ。

本日は OS が立ち上がるのを確認したまでで終わり。もう少し遊んでみて、HDD へのインストールを考えてみるつもり。

Filed under: 日日 — cova @ 01:38
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2005/05/14

ネット・ジャンキーを更生させる音楽の本当は怖い魅力

実は、ここのところ人知れず悩んでいた。長いゴールデン・ウィークの間も、それが終わってからも、仕事が進まなかったのだ。全然気分が盛り上がらない。別に嫌だという気持ちがあったわけではない。でも、何の高揚もなく、いい方向にも、いやーな方向にも、引っ張られるわけでもないのに、机の前に座るとひたすらウェブでふらふらーふらふら。それ自体はよくあることだが、気持ちが平坦なままというのは本来とっても不味いはず。それで、悩んだ顔もせずに実は悩んでいた。

そんな日が続いていたのだが、今日は何故だか音楽を聴いてみる気になった。あぁそうだ、HDD レコーダに撮り溜めたのを整理しているうちに、音楽の分が一向に処理できずに増えてゆくのが、ちょっぴり気になったのだ。しかし、それはそのままになって、別の方向に気が向いたのだった。

音楽を聴いてみるか。久しぶりに。そういう気になった。ここ暫く、いや何年か、音楽を聴く時間がなくなった。ひとつには、聴き始めると次次に CD を買う羽目になりがちなことがある。そう、嗜癖持ちなんだから仕方がない。すぐにハマってしまうのが分かっている。そういうわけで、音楽を集中して聴くことをやめた。そして、作業中に流すことも止めてしまった。音楽ばかりに気がいって作業が滞るか、仕事に集中して聞いていないか音が邪魔になるか、どちらかにしかならない。どっちも良くないんだから止めるか、と決めた次第。

今回はネット毒の解毒剤として音楽毒を少しばかり盛ったのだが、これが結構効いたのだ。いや勿論、嗜癖持ちを自覚していて、そんな手に出るのは半ば自殺行為なのだが、もうやってしまった。そして、少少不味いことに、取り敢えず良い方向に出た。うーむ、冷静に考えると、非常にいけないことをしたように思えてくる。

聴いたのはバッハ作曲グレン・グールド演奏「ゴールドベルク変奏曲」1981年録音版。もう軽く15年以上、お気に入りとなっているアルバムだ。選んだものが輪をかけているかも。本来ハープシコードのための曲だが、二十世紀を代表するエキセントリックなピアノ弾きグールドが、とんでもなく遅いテンポで主題のアリアを弾くのを皮切りに、よくもまぁと呆れる位の強引な解釈でテンポを変えて演奏を続けるのだが、出来上がりはけちのつけられないぐらいいい仕上がりになっているという、かなり際物として有名な一枚。そうは云っても、そんなこと知らない内に、これを繰り返し聴いてしまったんだよなぁ。そりゃぁ熱心に聴いたんだよ。だからどうしようもなく、これがスタンダードの位置づけなのだ。既に既成事実。

続けてメンデルスゾーン作曲「無言歌集」を聴いたところで、今回は目出度くお開きとなった。今日のところは仕事が最近になく進んで喜ばしいが、よく自分の性質を自分自身に言い聞かせることにしたい。危なっかしいからね。

Filed under: 日日 — cova @ 00:24
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2005/05/10

文字コードの面倒が解消される見込みはまだ暗い

毎日のように面白いことを探してネットの彼方此方を覗くが、此方の気持ちを掻き立てる話は何時も何時も見つかるものでもないが、ネット・アプリケーションの文字コードへの注文が【絵文録ことのは】の或る記事に書かれていて、至極した。要望は、「多国語を同時に扱える環境を提供してください」とあり、誠にもっともな話だと思った。同じことを考えている人がやはりいたかとも思った。

ラテン文字を使う中でも混乱があるのに、漢字や仮名に加えラテン文字も頻繁に用いる日本のネット状況で、中国の漢字表記やギリシア語の面倒までを同じページで処理したいと思えば、今のところ UTF-8 を使うことになる。どんなに頑張ったところで、一度で文字コードの問題が解決できるとは思えないから、まずは妥協してラテン文字を使う文化圏の開発者にも漢字などを使う他の文化圏の手当てもデフォルトにしてもらいたいのだ。欲を言うなら、UTF-16 でやって欲しいと思うぐらいだ。

しかし、日本の開発者の視点は後追いだ。やらなきゃいけないようになってからやる、ということらしい(参考)。大変な面倒がある、難しいものだということは、充分に分かっているつもりだ。それでもなお強いて発言するのは、多くの開発者の考えが及ぶ範囲のまだ外に、利用者の欲求が広がっている、利用の実態は既に先へ先へと進んでいて収拾が難しいところまで達している、ネット全体の資産を問題とすると早く手当てを施したいと考えるからだ。この気持ちは、現在常識的な範囲で満足できる利用者とは全く違うだろうが、つくるコンテンツにそれ相応の価値が生まれると踏んでいるからこそなのだ。

今のところ、コンテンツを提供する側が金銭的な利益を受けることはあまり無い。システム開発側が儲ける。身銭を切る側が求めているのだから、提供側は採算ベースに乗せてでも開発してくれないものだろうか。自分で開発していては、コンテンツが疎かになる。

まぁ、こちらもまるで小役人のような返答をする日本の開発者には見切りをつけて、海外のものを使っているのだし、それなりに妥協しながら解決を模索するので、大きな問題でもないのだが、木で鼻を括ったような挨拶はなかなか腹に据えかねる。

Filed under: 日日 — cova @ 01:17
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2005/05/08

1980年代のロード・ムーヴィに郷愁を覚えて自分の出所に思い至る

まだ、サーヴァの調子が悪い。いつの間にか Web やメールのサーヴィスがフリーズする。どういうことだか分からないが、管理ツールへ一旦アクセスすると回復する。うーむ、移転は面倒なんだが、考えないといけないだろうか。

さて、テレビの録画でだが、1984年の映画「パリ、テキサス」を観た。以前に一度観ていたが、放送の予定を知った時に懐かしさを感じ、楽しみにしていた。話の詳細は忘れていて、あぁそうだったかと思い出したり、はてこんなシーンがあったかと首を捻ったりした。タラーっとした展開は覚えていたとおりで、80年代を思い返した。

ロード・ムーヴィという言葉を知ったのは、ヴェンダースを持ち上げた当時の批評でだった。ヴェンダースやジム・ジャームッシュが注目を集めていた頃のこと。ヴェンダースの代名詞がロード・ムーヴィだった。「パリ、テキサス」も、その類だ。まるで変わり映えのしないアメリカ中部の風景が、車のフロントガラスの向こうで流れる。そんなシーンがしょっちゅう出てくる。何かにクローズ・アップすることも無く、積極的なメッセージがあるわけでもない。大した危機感も無く時間が過ぎてゆき、ただ旅が続く。気がつかない内に、遣る瀬無い展開にいつしか飲み込まれ、登場人物と同じ時空に自分がいるかのような感覚になっている。楽な姿勢で画面を眺める時間感覚が、目的のよく分からない旅のための旅、自分を失うための旅のすぐ近くまで来ている。

何故そうなるのかとも考えない遣る瀬無さ、それはあの頃にずっと抱えていたものだった。惨めな感情と結びついた、たらたら続く無為の時間、暇潰し。堪らない。誰の所為かはベッタリと感じていた。自分だ。

あの時の感情が呼び起こされた。80年代を正に無為に過ごしたものだから、ひどく懐かしく感じられた。結局、何をしたのか、さっぱり分からない、そんな時代の名残が気持ちを掻き乱す。自分にとって大切な時だったのかと、初めて気付く。

Filed under: 日日 — cova @ 00:57
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