現在職を探している萬年建築学生の文章。これを書くことで気持ちの整理、客観的な自己の見直しを期待。建築ネタに拘らない。
April 2005
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2005/04/24

悪貨が良貨を駆逐した後の宴

神戸 三宮 昨日二十三日、神戸大学で行われた建築史学会へ行ってみた。今年の学会は、発表を広く募ったので例年より数多く行われたものの、一人当たりの時間は短くなり、出席者からは発表内容への不満が垣間見えた。

午後は復元の是非を議題にシンポジウムが行われたが、大方方向性が見えていたし、サボって元町からメリケン埠頭、更には北野町の異人館街を周ることにした。シンポジウムは、夜になって懇親会の宴で耳にした限りでは、想定の範囲を超えるものではなかったようだ。それはそれで詰まらない。

懇親会は、面識のある先生も少なく、お顔を存じ上げる先生もまた数えるほどで、まぁいいやと開き直って角で大人しくした。そこから時々会場を見回すことはしていたが、あまり知らないものの、学閥単位の輪が二つ三つあることは分かった。どうやらミヤコノセイホクのすぐ近くにいたようで、また官僚機構からの参加者にも遭遇した。どっちへ転んでも色物扱いが関の山だった。まぁ、そんなところだろうか。

改めて眺めてみると、学者社会は、狸というよりは、欲に憑かれたムラの人間がルーレットを回すカジノのように感じた。よく分からないところで仕掛けはあるのかも知れないが、客の目から見ると、仕込んでいたとしても、思ったところへ玉を落とすのは相当難しそうに見える。とはいえ、賭けるチップをもたず指をくわえるだけなので、一攫千金の夢さえ関係がない。

Filed under: 日日 — cova @ 11:25
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2005/04/22

古い映画「屋根 Il tetto」に見るイタリア人気質

この間、テレビで放映した映画「屋根 Il tetto」(1956 Italia) を観ていて、イタリア人ってこうなんだよなぁ、そうそう、こんな風に怒るし、こんな感じで許すんだよなぁ。Vittorio De Sica って、如何にもイタリア人ってところを上手く出すんだなぁ。「自転車泥棒」でもローマの映し方が冴えてたし、「屋根」もそうだし、と、しきりに感心してしまった。

舞台はイタリアがとってもビンボーな時代のローマ。若い二人が無理して結婚して、住むところに困ってしまうお話。生活に困った二人が、法律とか、警察とか、そんなところをズルしちゃうし、自業自得といえばそうなんだけど、まわりの人間もかわいそーに思って影で手助け。でも、コトが仕事となると真面目なんだな、これが。実際今でもそうだし。(ちょっと友達かなんかと話すのは別だよ。だって、本当に10分とは続かないから。)職人気質って云われるけど、仕事に誇りを持ってるってことかな。

見所はねぇ、男どもがカッとなって爆発して、ばんっって出てったり、女がわっとなって、ぽろっと泣いたり、その喜怒哀楽の、こう、移り変わりの、筋目かな?、が何ともイタリアらしいって、そんな感じ。喧嘩して、蟠りもあるんだけど、いざという時にはどうしても人に頼っちゃうし、そうなると頼られた方は一切文句や愚痴を言わないで、真摯な態度で手助けしちゃう。お互いに結構気を使いながらなんだけどね。そうなんだよ、そんないい奴ばっかりだよなぁ。というか、そうするのが当たり前だし、しないと「やな奴」のレッテルかな。

ほんとに、今でもイタリア人の人情は、これが基準なので、まだその辺のことをよく知らないけど、そのうちにイタリアへ行くぞーっの人は覚えとくといいかもね。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 01:16
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2005/04/20

夜の LOUIS VUITTON あっと 京都四条

LOUIS VUITTON 京都大丸店 (設計・外装: 永山祐子)

LOUIS VUITTON 京都大丸店 LOUIS VUITTON 京都大丸店 詳細

おやおや、保守派ですね。

Filed under: — cova @ 10:11
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京都の四条烏丸辺りでの隈研吾の仕事

COCON KARASUMA

COCON KARASUMA COCON KARASUMA 詳細

あー、つまんない。

Filed under: — cova @ 09:56
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2005/04/18

流石に気になる反日運動とそれを取り巻く状況

中国人は体面を大事にする。それは分かっているつもりだ。そして、中国人が誰か他の人を非難する時には、一方的に言い切ってしまうことが連関している。しかし、日本人はそうしたコミュニケーションを苦手にしているし、中国人のやり方を知らない。国によるコミュニケーション、文化の違いがある。しかし、ことはそれでは治まっていない。

今は不味い方向へいっていると思う。では、何が不味いか。中国の学生や生活に不自由しない程度の富裕層が不満を溜めているのに、中国政府が甘く見積もっていることと、中国側の事情を見て日本人がナショナリズムへと傾く気配があるのに、日本のおじさんたちがその変化に気づかないことだ。どちらも大きな流れになろうとしているが、「少数」とする報道を繰り返すことで事態が沈静化するだろうと見ている。果たしてそうだろうか。それにしては、ここ二、三年のトーンが一定しているのではないか。

日本にしても中国にしても、今は経済が最大の関心事だし、お互いが抜き差しならないほどの関係にある。このまま中国の情勢が不安定になれば、両国の経済が危機を迎え、またそれが外交や内政の悪化を招きかねない。頭を抱えたくなる悪いスパイラルが見える。

ここで日本の政府に期待するのは、対中国への働きかけではなく、国内世論の不満解消だ。中国が中国人の不満を持て余すのにお付き合いしていては、日本の国内事情が益益ややこしくなるので、期待は持てないが、外務省にきちんと喋らせて日本国民を宥めて欲しい。

Filed under: 日日 — cova @ 23:47
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建築家になるロマンチシズム

かつて「建築家になる方法」という題で投稿したことがある。意地悪な云い方で、建築家になるということは、一定の技能研修を履修することとは違うのだと伝えようとした。学生がよくそんな考えをして、情報を漁ることだろうと思っていたからだ。実際にそんな検索で記事に辿り着くものが時々ある。

その方法が大体わかっていて、エリート路線で建築家として身を立てる術もあるかもしれない。しかし、圧倒的大多数は、「建築家」に憧れて、大した情報もないままに道を歩み始め、唯唯遠く辛い道程を憑かれたように進む。それには、自分の中で揺らいでいる目的と意思と行動の関係を見出し、それを是認するロマンチシズムを必要とする。

そこにはどの道を往くのか、どの方角なのか、どうやってその道を見つけるのかといった情報はあるだろうし、目的地まで歩くための装備や注意、トラブルが起こったときの対処法は、それこそ誰もが知っておくべきこととして皆が語るだろう。でも、成功者の言葉はほんの僅かしか聞こえてこない。ほとんどは、人から人へと伝わるうちに、原形を失ってしまう。自分がどうするかは、自分の特殊事情を勘案して、自分で考えた上で試行錯誤するしかない。誰もがそうしている。

果てしなく続く道を往き、粗末な衣服や持ち物を大事にしながら、日日進むことだけを考える。ストイックな旅の生活に幾許の満足を感じる。実はあまりよく知らない目的地への憧れだけを支えにしながら。

建築家にはそんなロマンが似合うだろうか。それともアメリカン・ドリームがありえるのか。いい学歴がそのまま社会的地位や収入に直結すると、建築の世界でも実しやかに囁かれるが、必ずしもそんな尺度だけではないと思う。

Filed under: 日日 — cova @ 01:07
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2005/04/16

建築家物語の構想 「イタリア・バロックの父マデルノ」

テレビ局のご都合から自由になるはずだったが、またしてもテレビにしてやられている。録画録画に追われるばかり。日に三本も四本も放映されれば、観るのも大変だし、HDD もすぐに満杯になろうかというものだ。それに、一旦番組表を眺めだせばチェックに長い時間がかかる。音楽番組やドキュメンタリー、ニュースも観だすと面白い。建築関係のもあれば、世界の都市を紹介する番組、ドキュメンタリーもある。それに、Jリーグもちゃんと流しているし、ヨーロッパや南米のワールド・カップ予選も放映される。DVD レコーダを買う前にウンザリしていたヴァラエティー番組を見る暇がなくなったのはいいが、かえって自分の時間の使い方がいびつになる始末。仕方がないからこのまましばらく続けてみるつもりだ。

そんな状況なので、録画したものをどんどん観ていかなければならない。だから毎日のように映画を観る。なんだかんだ云いながら楽しむ。それはただ何となく見ているようなものだが、それでも自分なりの課題が実はある。それはストーリーテリングだ。ドラマツルギーと云ってもいい。つまり、どうして物語が成り立つのか。何が必要で、どんなことが艶を出し、どうして纏まるのか。キャラクターなのか、演出なのか、台詞なのか。それを知ってどうする、と問われても困るが、普段からずっと建築の静的な構成ばかりだから、ダイナミックなものを組み立てるのに戸惑いを覚える。動くものを創って、たとえ片時でも強い印象を残したい、そういう気持ちがあるのだろう。いつもきちんとしたものを作ろうとして、そうするものだと決めてかかっている。すぐに一つひとつをギリギリまで削る算段を立てるのだが、イキモノを何にもないところから産み出すには、「生」を与えることから始まるに違いない。削るより先に種をつけなきゃいけない。しかし、できる時もできない時も自分が何をやっているのかさっぱりわからない。そこで目をつけるのが物語り、ストーリーテリングという訳だ。

もしも会得できたら、イタリア・バロックを語ってみたい、と思っている。例えば、カルロ・マデルノの物語だ。田舎から出てきた職人カルロが、建築に情熱を傾けて、ひとつまたひとつと仕事を進める。カルロは、建築家仲間から必ずしも高い評価をもらうわけではなく、不遇に喘ぎ、私生活は崩壊してしまう。仕事では、やりたい放題のドメニコ・フォンターナから無理難題を吹っかけられる。しかし、ドメニコの仕事を足懸かりにキャリアを積み上げ始め、ついにサン・ピエトロの大仕事を得る。後に有名建築家になる甥フランチェスコ・ボッロミーニや、天才肌のジャン・ロレンツォ・ベルニーニを使い、新しい時代を切り開いていく。やがて大仕事を終え、地位を築いたカルロは、密かに追い求めていた奇想天外な建築の実現に執念を燃やすようになる。・・・

学術的なことや史実に拘らずに物語らしい物語を創ってみたい。そんな想いがある。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 01:50
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2005/04/09

カソリック教会教皇の葬儀をいかに受け止めるか

衛星放送で、教皇の葬儀を中継していた。しかし、何故か BBC を使った。どうしてイタリアの放送局 RAI を直接使わなかったのか解せない。週に一度、ほんの少しは RAI のニュースを流すのに。カソリックとは違った宗派が主体の国を使うと、どうしても違和感を感じる。それは、イタリア語やラテン語を使う式典を英語で放送して、さらに日本語に同時通訳するもどかしさの中にある。イタリアでは、ローマでは、違った習慣で亡くなった人を称え、また別の視点から参加する。人々の記憶に、そして土地の空気に染み付いた流れのようなものが、英国人の口からは出てこない。言葉にこだわる放送局が、一方ではいまだに「ローマ法王」と呼びつづけながら、言葉に含まれる固有の空間性を蔑ろにするのは、やっぱり納得できなかった。

イタリア人は、著名な人物が亡くなると、口々にその人を称える。生前は口を極めて論っていても、悪びれもせず、しかし、共感をもってその人の業績や人柄を改めて誉め称える。共感をもって、と言う言葉がとても適当だと思えるぐらい、亡き人に言葉をささげ、気持ちを同じくする人達と抱擁し合う、そんな気持ちを感じる。きちきちと決まりごとをこなすというよりは、必要なことをザックリと仕切ったような感覚で、プログラムされていることもあるのだろう。

勿論、場所が変われば裏の動きも吝かではない。それでもなお、例えテレビ放送の現場中継でも、ジャーナリストらしい口調や物腰に徹することなく、気持ちを同じくして同じ場に参加していることを忘れない。そんな空気の流れがあの場にもあったはずだ。中途半端に予定していた野球中継を始めるのなら、最後の最後になって中継を止めるなら、どうして生中継にこだわって二時間以上も流したのか、その意味合いがおかしくなってしまう。どう考えているのかと困惑する。視聴率に代表されるビジネスライクな態度、経済的合理性に組しない姿勢を支えるのは、文化としか言いようのないもののはずで、それを伝えつづけることによって自らの方針を正当化できる。その理屈が崩れたら、芯をなくして悩むことになる。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 01:49
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2005/04/06

テレビ局のご都合に左右されない楽しみ方

もう、テレビが面白くない、そう思って大分経つが、近頃益益ウンザリしていたので、DVDレコーダーを買ってみた。今日届いたから早速使っているのだが、いやぁ、こう云うのを期待して居たんだなぁ、とシミジミ。

何がいいかって、、わかるでしょ。この時期どのチャンネルも押し並べてお笑い芸人を寄せ集めた二時間、三時間の番組が並ぶ。これがもうウンザリ。そうでしょ。食事が終わってゆっくりネッ転がって、テレビでも、と、このウンザリがやってくる。そうでなくても八時から十時まではおかしみも意外性もない、ここはこういっとこ、なんて屁タレ丸出し、芸のないタレントに付き合わされがち。これなら、どんなに下らなく詰まらないのでも映画の方がいいなぁ、と思って、でもなんとなく踏み切れずに、ずるずる愚図愚図していた。

家に帰って、飯食って、で。ほう、いいねぇ、ピーター・フォンダ。まだ暇なら鞍馬天狗がある。それは観ないけど、あるって云うだけでいい。画質もテレビで見る限りは充分。なんか急に映画に凝りそうな気さえしてくるぐらい。うん、生活に張りができそう。

兎に角、この気分のよさだけでも納得の買い物ですな。

Filed under: 日日 — cova @ 23:36
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2005/04/04

秋葉原はヲタクと万博のクロスフィールドとなり果てぬ

秋葉原の再開発計画「秋葉原クロスフィールド(旧称:秋葉原ITセンター)」が石原都知事の肝煎りで進んでいるんだけど、勝ち馬に群がるホワイトカラー(死語)の集団を見るようで、正直引いてしまうし、がっかりだ。秋葉原にしろ、大阪の日本橋にしろ、今はエロエロ商売抜き、法に抵触するかもしれない危ない領域なし、精神が弱っているないし少々病んでいる人抜き、買い物ツアーの中国人客なしなんて姿には、もう戻れないところへ来ているのに、お役所や大学がその仲間入りしようという発想は尋常じゃない、それこそ逝ってないか。知的見通しや地域の管理に日夜励んでいるはずの身奇麗な人達が、いわばモラルの赤線地帯で何をしようとし、何ができる見込みがあるのかな。もし、皆がそんなものを持たずに突っ込んでいるのなら、秋葉はまた大きく変わるよね。

どうやっても相容れない世界の違う人たちが狭い地域に集まるのだから、それはもう棲み分けか食い分けする他はないんじゃないかな。学生なのかニートなのかわかんないのが、ダイガクやエロやアニメのどれかに誘われて出てきて、うろうろしている間に寄って集って金が吸い上げられる、と社会人たちは考えているのだろうか。そんなに旨くいくのかな。若い連中はやはり敏感だし、感じたところをすぐに行動に反映させるから、それに、サブカルチャーの習得の早さは大人な人の想像を凌駕するんだぞ。それを計算に入れてるのかぁ、疑問だぁ。もしもさ、競争排除をやってしまって、当て込んでいた弱い連中の行き場がどっかいったらさぁ、投資を回収できないままに秋葉がすっかり変わってしまうような気がしないかな。ホワイトな人達の想定から秋葉原は出ないんですかね。リスクにヘッジかけてるの?

ところで、ニッチ niche って、生態学用語だったんだ。ウィキペディアでごく簡単に調べただけだけど、棲み分けや食い分けの概念もわかって、知らない間に経済活動を生態学的に眺める視点に慣れつつあるのに、ようやく気がついたよ。

Filed under: — cova @ 23:38
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