
鹿児島や福岡へ出掛け、暫くご無沙汰していた各方面の大学関係者にお会いしてきたけど、どちらさんも大学改革の波に洗われていらっしゃるご様子でした。学生が減りそうだとか、担当講義が減ったとか。こちらの職探しには、すっかりスルー対応で、想定の範囲内ど真ん中。結果はそんなものだろうが、その時の感触から想像を大きく働かせて勘繰ってみた。「段々と居心地が悪くなって不味いなぁ。自分たちが食い詰めることはないとは思うし、今更大きく生活が変わるのは面倒だけど、そうもいかないだろうし、どの辺が適当だろうかね。」という所じゃないかと。
どこの大学研究室でも、雰囲気が何時の間にか変わってきている様子だ。中堅ないし若手の教員は、往々にして、腹芸が全く出来ない。どこかの実業家のように、「資本主義のルール」を行動原理に据えて、陣取り合戦、人海戦術肉弾戦をやっている古狸をせせら笑いながら、一撃を与える隙を窺っている。シニカルと言えば少々賢しく聞こえるが、意気地のない凡人が武器を手に入れて野心を宿しているだけのような気がする。兵法をきちんと収めたわけでもないだろう。教科書に一通り目を通しただけで、長い人生をやっていけるなら世話はない。
どうして自分自身の状況を見誤るのか。それも子供じみた考えで。
近頃槍玉に挙げられているある若手教授の話しを聞くにつれ、その教授殿自身に社会経験が著しく不足していることが、学内政治や学生指導の各局面で、基本的判断を間違わせる原因になっているのだろうと思うようになった。地位を手に入れても自分自身に不安を感じていて、何か既成のものに保証して欲しいと強く願っている。そのために契約を結ぶ。相手が、古狸か香具師かお調子者か予測不可能な宇宙人か確かめる前に、もう信じることに決めている。その時に予想される前提が、未来永劫その範囲を超えないことも自明らしい。
あんた、先行きに不安を感じるのは、どんなに今頭を捻っても、一寸先は闇の中だからじゃない。何にすがっても、誰に責任を追及するにしても、あんたの未来はあんたが受け止めるんだよ。だって、そういうポストにいるんだから。
一方、総じて学生は学生で真面目になっているらしい。教師の言うことを真に受けて、それに応えるべく頑張るのだから、本来はけちをつけるところではないけど、でもねぇ、悪い面もしっかり出ているからね。それもまた社会経験の不足から来ているんじゃないでしょうか。特にそう言わなくても、分かっていいはずの事が感じ取れない。何処まで学生には裁量が許されるのか。時と場合によってどう話しが変わるのか。そんなものを一々語りだしたら切りがないし、系統だっていないものを短期間で伝授するなんて出来ない。
どうして研究室という制度があるのか。それを考えるべきじゃないかと思う。それぞれユニークな形態だから普段は意識しないが、研究室は小さな社会に違いない。その社会を継承する意義や、その時その時の運営や改革の重みをもっと感じてもいい。大雑把な目論見だけで行動するのは大学にいるようなインテリがすることじゃないよ。時間に迫られて、不安に煽られて、孤独に耐えられなくて、甘言に弄ばれて、道を見失った時こそ、自己と社会の繋がりを思い出して欲しいんだけど。