現在職を探している萬年建築学生の文章。これを書くことで気持ちの整理、客観的な自己の見直しを期待。建築ネタに拘らない。
February 2005
S M T W T F S
« Jan   Mar »
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728  

2005/02/11

あれあれ、テレビで同じ試合を観てなんでこんなにも違うんでしょ

ワールドカップの対北朝鮮戦から暫くたって、幾つかの blog も読んでみたが、うーん、何で? という気持ちがまたもやふつふつと来た。なーんか違うんじゃない、ここも見てよ、という気持ちだ。

ひとつは、審判問題の無視。(この前のエントリーでは、オフサイドをとらなかったミスを書き忘れていた。) ジーコは予想していた節があるが、これについては今回はこれまでに。

お次は、キーパー川口の判断ミス。「あれがミスじゃなかったら相当な技術」なんて言い訳は、川口から聞きたくない。体勢が崩れて踏ん張れなかったのはいただけないでしょ。マークがついていなかったのは見えていたし、あの距離からシュートを打たれて見送るようでは実力がないと思うわけだ。川口は同じミスを繰り返してきた。サイドの角度のないところからのシュートに反応できないのは、なめてかかっているのか、それとも自分で分かっていないのか。アジアカップでのオマーン戦でもそうだったと記憶している。

それから大黒の評価について。大黒の持ち味は、あのシュートによく現れている。常にシュートイメージを持っていて、そのイメージに合わせてボールの受け方を選ぶ。言ってみれば、フィニッシュから逆算してプレーを組み立てる。まず受けることを優先した高原とはまるで違っている。(ワールドカップ予選のホームでの対インド戦1点目を決めた久保のシュートは逆算だと思う。) フォワードにも色々なスタイルがありえるが、大黒のスタイルは生産的で魅力的だ。試合前の下馬評は、もうこの際どうでもいいじゃない。あのスタイルの良さをもっと評価して欲しい。ジーコはしっかり評価してるよ。

Filed under: 蹴鞠 — cova @ 19:58
• • •

2005/02/10

サッカーに冷や水を浴びせるマスコミの仕打ち

昨夜のワールドカップ・アジア予選のテレビ中継を見て、その後の報道を追いかけて、釈然としないことがある。どうしてあの酷い審判について何も言わないのだろうか。テレビや新聞、ネットニュースも審判に問題を認めていないのだ。スポーツに政治的なバイアスをかけて報道するのは、マスコミがスポーツを軽視しているからだと批判されても仕方が無い。

昨夜の日本対北朝鮮の試合では、危険な反則的プレーが非常に多かった。遠めに見ても分かるほど遅く、足を刈りにいったタックル。足裏を相手に見せるほど蹴り上げたものもあった。背後からのしかかるチャージ。(一度は日本の鈴木に背後から飛び膝蹴りを入れていて、そのリプレーがスローで放送されたにも関わらず、実況アナウンサーも解説も問題を指摘しなかった。)ユニフォームだけでなく、腕や肩を大きく引っ張る。選手に怪我をさせかけない危険なプレーが多かったのだ。

しかも、選手が倒れていたにも関わらず、プレーは長く続行されたこともあった。また、主審がイエローカードを取り出している最中に、プレーをリスタートさせた。明らかにプレーは停まっていたのだ。何故主審は流したのか。

報道によれば、日本の代表選手たちは落ち着きを失ったことを反省点に上げているそうだ。しかし、観ていたら分かるじゃないか。明らかに北朝鮮に有利な審判が続き、スポーツマンシップを疑うラフプレーが止まらなくなって、日本代表は戸惑ったのだ。北朝鮮の選手が近づくと、反則にとられるのを避けるために焦ってパスコースを探したのだ。むしろ、審判に対する執拗な抗議を控え、報復的なプレーをせず、感情的に苛立たなかった日本代表を誉めるべきだ。

審判を直接非難することを選手に求めるのは酷なのだから、報道のプロたるマスコミがそれを上手く伝えなくてどうする。公式情報の審判員の名前さえ碌に公表しないじゃないか。「主審アル・ガムディ・キャリール・イブラヒム(サウジアラビア、34才) 昨年3月のアテネ五輪アジア最終予選「日本―レバノン」戦でも主審」という情報の露出度があまりにも小さい。

個人サイトではしっかりと審判の問題を認識している。何故マスコミは「今回の審判に問題があった」と言えない。百歩譲って政治に配慮したとしても、ここまで蓋をすることはないだろう。普段は政府の外交の下手さ加減を槍玉に挙げる割には、全く拙い対処だった。去年のアジアカップでも審判は信用できなかったし、今後も日本は審判に悩まされるだろう。ファンを含め、皆で是正していくべきだ。

Filed under: 蹴鞠 — cova @ 10:56
• • •

2005/02/06

平安のお宝を楽しんで

厳島神社国宝展が奈良国立博物館でやっていて、別段復興の支援というわけでもなく、機会があって観てきた。お目当ては「平家納経」だったのだが、色々なものがあって面白かった。少し前までは、仏教に限らず宗教美術全般に好感が持てなかったのだが、いつの間にやら経典を眺めることさえ楽しむようになってしまった。少しは大人になったのだろう。

今回のお宝は、厳島神社のパトロンであった平清盛にまつわる品々が多かった。平安時代から伝わったものとなると、八百年以上も前につくられたわけで、とても貴重なのだ。建造物なら、平安期以前のものとはっきりわかると国宝に指定される可能性が高いという。美術品や工芸品であっても、恐らくとても貴重であるに違いない。展覧会の出展品にも、国宝、重要文化財がいつもより多目に入っていた。

平安期は雅な時代なので、経典の素材自体が雅さを感じさせるのだ。紙面に金がきらきらして、あぁ、とっても雅な気分、に浸ることができる。私にはお経は読めないし意味もわからないのだが、ゴージャスな雰囲気を楽しむことは十分に出来た。続いて経典を収める経箱に目をやると、やっぱり素敵に見えてしまう。おぉ、仏教美術も楽しいじゃないか。

タッキーや稲盛サンのドラマに感じたものとは違ったものを、博物館で追体験して満足したのでした。新境地が開けたかな。

Filed under: 日日 — cova @ 20:35
• • •

2005/02/02

日本人が彷徨う

実は先の「首大」の時から、Blog「内田樹の研究室」をよくみるようになった。今日は「パリ症候群」の話題だった。元ネタの新聞記事は既に見ていて、自分の経験に照らし合わせてみて考えていた。因みに、「パリ症候群」というのは、パリ在住の日本人の中に見られる、将来の見通しへの不安とことばによるコミュニケーション失調による神経症的な症例のことのようだ。新聞による脚色は兎も角、「パリ」に憧れながらも適応に苦しむ日本人が多いという話には納得をしていたので、内田教授がどう料理するのか興味を感じながら読み進むことが出来た。

海外で出会った人達を思い出してみると、見知らぬ土地での出会いによって自分が成長を遂げることを期待している人が多かった。不慣れな土地での生活というイニシエーションを自ら課す一方で、他人の親切を期待しているのも否めない。困っている時の親切はとても嬉しく印象深いが、世の中そう捨てたものでもなく、親切な人がいないわけでもない。ある程度は成功が期待できる課題といっていい。だが人によってはもっと大きなものを期待している場合がある。ハクをつけるために海外で修行しようという時も、筋書きのあるドラマを期待してしまう、そんなことがよくある。自分の境遇に不満を感じながらも、今は秘められた能力を信じている人の場合だ。ぽんと仕事をやめ、憧れの異国へと身を投じてはじまる成功の物語が、自らの人生に重なって見えるのだろう。

教授の意見では、「パリ症候群」の主な原因は「現在の若い日本人のほとんどは自分の不幸や失敗を「他の人のせい」にする他罰的説明に依存している。「社会が悪い」「親が悪い」「学校が悪い」「メディアが悪い」などなど。 ・・・ 特に20代30代の若い女性が発症するというのは、彼女たちの社会集団が「他罰的」な構文で自身を語る習慣をもっとも深く内面化していることと関係があると私には思えるのである。」と考えられるようだ。パリという都市に責任は無く、本人の内面にあるという考えだ。

フランスでの自由に対する考え方の違いについても説明されている。そのことも大事だと思うが、また別に、ヨーロッパでは「満足」という言葉の意味も日本でのニュアンスとは違っていることも関係しているように思う。「満足」はもうそれ以上することは無い、ここで死んでもいい、という気持ちを表すのではない。過去となったことの意義を認める、全体を肯定的に評価する、というものだ。それ以上のものではなく、明日になればあっさり頭を切り替えて、足らないものを求め別の評価基準でモノを考える。

精神的な失調には至らずに新しい挑戦を求めて都市から都市へ、国から国へと渡り歩く人もいるだろう。やがて自らに目が向いて自分の姿に改めて気付き、それが受け入れられ満足へと導かれる時、異国で根付いた人生が始まるのだろうか。

Filed under: 日日 — cova @ 19:33
• • •

2005/02/01

古典彫刻にみる美しさ

Apollo del Belvedere

このベルヴェデーレのアポロ Apollo del Belvedere には、別に紀元前4世紀の青銅のオリジナルがあったと言われている。製作者は Leocare で、左手には弓を、右には月桂樹の小枝を持っていたらしい。

ラオコーンに比べればはるかに楽な姿勢だし、人体各部の均整が分かり易い。見たものをそのまま引き写すように彫るというよりは、人体の理想形で見せようとしていたのだろう。衣装がないとユニヴァーサルな印象になって、文化的基盤を越えて受け入れ易いが、それも古典のポイントかな。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 00:18
• • •
Powered by: WordPress - Designe: ADMIN-BG - Modify: cova
HTTP Error Code 404: Object not found.

 
 
 







    Error 404: Object not found
Web page doesn't exist!







free web hosting by FREE.BG 1999-2010

Bad Behavior has blocked 627 access attempts in the last 7 days.