現在職を探している萬年建築学生の文章。これを書くことで気持ちの整理、客観的な自己の見直しを期待。建築ネタに拘らない。
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2006/02/12

トリノ・オリンピックの開会式はいかにもだった

トリノ・オリンピックの開会式が如何にもイタリアらしい演出だったので、ニヤニヤしながら観ていた。全体をひとつの物語としてまとめ上げる意識が弱く、散漫な印象が拭えない。それぞれの場面の質は高いのだが。独創的でさえある。

世界的バレエ・ダンサーは大きく美しかったし、あの老パヴァロッティも十八番をしっかり唱い切った。どちらも素晴らしいと思った。長年の訓練と経験に裏打された演技、演奏に個性が実を結んでいる。舞台の上でフェラーリを組み立て、アクセル・ターンをして見せるあたりは、イタリア人もやり過ぎだというだろうが、同時に、そうした過剰なまでのエンターテイメントというのも、お祭りの場ではまんざらでもない。

劇場に見立てた大きな額縁にワイヤーを張り、一群が白いぴったりとした衣装に身を包んでぶら下がりながら、くるくると器用に回転し上がり下がりをしてくれたパフォーマンスが殊に面白かった。あんなものは初めてだった。演者一群の息が合っていたし、くるりと体を回しながら位置を整え、わらわらと群がっては離散するのが、とてもテクニカルなものと映った。その苦労の割には華華しさが少し足らなかったのだが、徒労感の滲み出た熱演が好印象だった。そんなところがイタリアらしいと思う。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 12:26
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2006/02/11

ロマンチシズムを語る

ローマは遺跡と教会堂とパラッツォが犇めき折り重なる街だ。密集している。そして人がぞろぞろ動く。イタリアにあり、その首都だが、他の都市をまとめて代表するわけではない。古代帝国や宗教組織が居を構え、歴史と権力が互いを求めて今日のローマに至っている。そういうことだろう。慈悲はあっても譲り合いはない。そこで折り合いをつける。いつもぶつかりそうになるのだが。

中心部の至る所に古代の遺物がある。神殿跡の一画があり、大理石の柱が遺り。パンテオンなどは建物ごと遺っていて、今でも使われている。教会堂として、まさに会堂として機能する。その記憶の重なりたるや想像を絶する。よくもこれだけ集まり重なるものだ。そこに無常の感性はない。いつも同じものに重なる。そんな仕組だ。時を経ても同じもの。時空を超えて共有する。シンパシーだろうか。

だからローマは幻想をもたなければ見えないだろう。憧れが、垢抜けない雑然とした都市を、如何にもローマらしく映すだろう。そこに住んでいるものにとっても事情は変わらない。同じことがフィレンツェにもミラノにもヴェネツィアにもいえるのだが、ローマは権力との付き合いが古代より長きにわたっている。遺跡と教会堂とパラッツォが、こんなにも入り組んで密集しているところはない。時間も巻き込まれて、真直に進んではくれない。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 19:10
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2005/07/04

カルヴィーノの「軽さ」を感じる

数日前にカルヴィーノ Italo Calvino の「柔らかい月 Ti con zero 」を買って、読み始めている。

もう十年も前に「まっぷたつの子爵」、「木のぼり男爵」、「不在の騎士」の初期三部作を読んで粗方分かったような気でいた。後で「見えない都市」や「むずかしい愛」にも目を通したが、こっちのほうはそれほど面白いとは思わなかった。だから、カルヴィーノの限界を見たような気でいた。

それなのに、オースターのエッセイ集に名前が出てきたので、気になり始めた。そう云えば Qfwfq の話は読んでいない。ナニ、「柔らかい月」で作風が変わった。どんな風に。都心へ出た時に大型書店で探した。

自然科学に題材をとった短編集、と云っていいだろうか。まだ二つしか読んでいないから、全体のことは分からないが、着想をエッセンスだけで描こうとしていると感じた。純然たる科学の挿話に、時代や科学的思考を超えた人間ドラマが共鳴する。どちらにも共通するところを、作家が狙っているのだ。可能な限り登場人物や背景の説明が省かれる。科学的な可能性、現実性は反故にされる。的が絞られ、他は追わない。

しがらみがない「軽い」語りだ。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 00:36
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2005/04/22

古い映画「屋根 Il tetto」に見るイタリア人気質

この間、テレビで放映した映画「屋根 Il tetto」(1956 Italia) を観ていて、イタリア人ってこうなんだよなぁ、そうそう、こんな風に怒るし、こんな感じで許すんだよなぁ。Vittorio De Sica って、如何にもイタリア人ってところを上手く出すんだなぁ。「自転車泥棒」でもローマの映し方が冴えてたし、「屋根」もそうだし、と、しきりに感心してしまった。

舞台はイタリアがとってもビンボーな時代のローマ。若い二人が無理して結婚して、住むところに困ってしまうお話。生活に困った二人が、法律とか、警察とか、そんなところをズルしちゃうし、自業自得といえばそうなんだけど、まわりの人間もかわいそーに思って影で手助け。でも、コトが仕事となると真面目なんだな、これが。実際今でもそうだし。(ちょっと友達かなんかと話すのは別だよ。だって、本当に10分とは続かないから。)職人気質って云われるけど、仕事に誇りを持ってるってことかな。

見所はねぇ、男どもがカッとなって爆発して、ばんっって出てったり、女がわっとなって、ぽろっと泣いたり、その喜怒哀楽の、こう、移り変わりの、筋目かな?、が何ともイタリアらしいって、そんな感じ。喧嘩して、蟠りもあるんだけど、いざという時にはどうしても人に頼っちゃうし、そうなると頼られた方は一切文句や愚痴を言わないで、真摯な態度で手助けしちゃう。お互いに結構気を使いながらなんだけどね。そうなんだよ、そんないい奴ばっかりだよなぁ。というか、そうするのが当たり前だし、しないと「やな奴」のレッテルかな。

ほんとに、今でもイタリア人の人情は、これが基準なので、まだその辺のことをよく知らないけど、そのうちにイタリアへ行くぞーっの人は覚えとくといいかもね。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 01:16
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2005/04/16

建築家物語の構想 「イタリア・バロックの父マデルノ」

テレビ局のご都合から自由になるはずだったが、またしてもテレビにしてやられている。録画録画に追われるばかり。日に三本も四本も放映されれば、観るのも大変だし、HDD もすぐに満杯になろうかというものだ。それに、一旦番組表を眺めだせばチェックに長い時間がかかる。音楽番組やドキュメンタリー、ニュースも観だすと面白い。建築関係のもあれば、世界の都市を紹介する番組、ドキュメンタリーもある。それに、Jリーグもちゃんと流しているし、ヨーロッパや南米のワールド・カップ予選も放映される。DVD レコーダを買う前にウンザリしていたヴァラエティー番組を見る暇がなくなったのはいいが、かえって自分の時間の使い方がいびつになる始末。仕方がないからこのまましばらく続けてみるつもりだ。

そんな状況なので、録画したものをどんどん観ていかなければならない。だから毎日のように映画を観る。なんだかんだ云いながら楽しむ。それはただ何となく見ているようなものだが、それでも自分なりの課題が実はある。それはストーリーテリングだ。ドラマツルギーと云ってもいい。つまり、どうして物語が成り立つのか。何が必要で、どんなことが艶を出し、どうして纏まるのか。キャラクターなのか、演出なのか、台詞なのか。それを知ってどうする、と問われても困るが、普段からずっと建築の静的な構成ばかりだから、ダイナミックなものを組み立てるのに戸惑いを覚える。動くものを創って、たとえ片時でも強い印象を残したい、そういう気持ちがあるのだろう。いつもきちんとしたものを作ろうとして、そうするものだと決めてかかっている。すぐに一つひとつをギリギリまで削る算段を立てるのだが、イキモノを何にもないところから産み出すには、「生」を与えることから始まるに違いない。削るより先に種をつけなきゃいけない。しかし、できる時もできない時も自分が何をやっているのかさっぱりわからない。そこで目をつけるのが物語り、ストーリーテリングという訳だ。

もしも会得できたら、イタリア・バロックを語ってみたい、と思っている。例えば、カルロ・マデルノの物語だ。田舎から出てきた職人カルロが、建築に情熱を傾けて、ひとつまたひとつと仕事を進める。カルロは、建築家仲間から必ずしも高い評価をもらうわけではなく、不遇に喘ぎ、私生活は崩壊してしまう。仕事では、やりたい放題のドメニコ・フォンターナから無理難題を吹っかけられる。しかし、ドメニコの仕事を足懸かりにキャリアを積み上げ始め、ついにサン・ピエトロの大仕事を得る。後に有名建築家になる甥フランチェスコ・ボッロミーニや、天才肌のジャン・ロレンツォ・ベルニーニを使い、新しい時代を切り開いていく。やがて大仕事を終え、地位を築いたカルロは、密かに追い求めていた奇想天外な建築の実現に執念を燃やすようになる。・・・

学術的なことや史実に拘らずに物語らしい物語を創ってみたい。そんな想いがある。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 01:50
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2005/04/09

カソリック教会教皇の葬儀をいかに受け止めるか

衛星放送で、教皇の葬儀を中継していた。しかし、何故か BBC を使った。どうしてイタリアの放送局 RAI を直接使わなかったのか解せない。週に一度、ほんの少しは RAI のニュースを流すのに。カソリックとは違った宗派が主体の国を使うと、どうしても違和感を感じる。それは、イタリア語やラテン語を使う式典を英語で放送して、さらに日本語に同時通訳するもどかしさの中にある。イタリアでは、ローマでは、違った習慣で亡くなった人を称え、また別の視点から参加する。人々の記憶に、そして土地の空気に染み付いた流れのようなものが、英国人の口からは出てこない。言葉にこだわる放送局が、一方ではいまだに「ローマ法王」と呼びつづけながら、言葉に含まれる固有の空間性を蔑ろにするのは、やっぱり納得できなかった。

イタリア人は、著名な人物が亡くなると、口々にその人を称える。生前は口を極めて論っていても、悪びれもせず、しかし、共感をもってその人の業績や人柄を改めて誉め称える。共感をもって、と言う言葉がとても適当だと思えるぐらい、亡き人に言葉をささげ、気持ちを同じくする人達と抱擁し合う、そんな気持ちを感じる。きちきちと決まりごとをこなすというよりは、必要なことをザックリと仕切ったような感覚で、プログラムされていることもあるのだろう。

勿論、場所が変われば裏の動きも吝かではない。それでもなお、例えテレビ放送の現場中継でも、ジャーナリストらしい口調や物腰に徹することなく、気持ちを同じくして同じ場に参加していることを忘れない。そんな空気の流れがあの場にもあったはずだ。中途半端に予定していた野球中継を始めるのなら、最後の最後になって中継を止めるなら、どうして生中継にこだわって二時間以上も流したのか、その意味合いがおかしくなってしまう。どう考えているのかと困惑する。視聴率に代表されるビジネスライクな態度、経済的合理性に組しない姿勢を支えるのは、文化としか言いようのないもののはずで、それを伝えつづけることによって自らの方針を正当化できる。その理屈が崩れたら、芯をなくして悩むことになる。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 01:49
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2005/04/02

パパが危ない

カソリック教会の最高権力者、教皇ヨハネパウロ2世が危篤状態だ。パスクワァの時も声が出ない様子が報じられていたが、もう、とっても危なそうな雰囲気が漂ってくる。

ポーランド出身だとか、あっちこっちと訪問が多すぎるとか色色言われてきたが、いざイヴェントとなって、例の防弾硝子に囲われた電気自動車で広場に現れる時には、子供たちが一斉に「ジョヴァンニ・パオロ♪」を連呼する。やはり、愛されているのだなと感じ、また気が和むものだ。

ま、やっぱり権力者なので、奇麗事ばかりも言っていられず、先々を考えて周りが騒がしくなるだろうし、こちらも気掛かりだ。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 00:41
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2005/02/01

古典彫刻にみる美しさ

Apollo del Belvedere

このベルヴェデーレのアポロ Apollo del Belvedere には、別に紀元前4世紀の青銅のオリジナルがあったと言われている。製作者は Leocare で、左手には弓を、右には月桂樹の小枝を持っていたらしい。

ラオコーンに比べればはるかに楽な姿勢だし、人体各部の均整が分かり易い。見たものをそのまま引き写すように彫るというよりは、人体の理想形で見せようとしていたのだろう。衣装がないとユニヴァーサルな印象になって、文化的基盤を越えて受け入れ易いが、それも古典のポイントかな。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 00:18
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2005/01/26

大蛇に襲われる男

Laocoonte
ギリシアはヘレニズム期とされる彫刻。ギリシア軍の木馬の策略を知ったトロイアの神官ラオコーン Laokoon が、ギリシア贔屓の神々に送られた大蛇に襲われているところ。一所に蛇に巻かれている二人は息子だそうな。

プリニウス Gaius Plinius Secundus 23-79 の記述から、Hagesandros, Plydoros, Athanodoros の三人が作ったもので、ティトゥス帝 Titus Flavius Vespasianus 在位79-81 の宮殿にあったことになっている。1506年にローマ市内エスクィリーノ Esqulino の丘で発見され、現在はヴァチカン美術館に収蔵。

ベルヴェデーレのトルソより、不自然さが少ないポーズとみた。

この彫刻も、バロックと関連付けて考えられることが多い。ま、筋骨隆々としたところがいいわけで、ポーズもかなり力んでダイナミック。主題も神様ではなく可哀相な一神官というわけで、うっとりと見つめながら妄想に浸る対象でないことは理解しますが、かといってすぐにバロックと同じだと言うのは、ちょっと急ぎすぎるように思いますな。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 00:02
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2005/01/23

突然ながらトルソを

torso del Belvedere

ヴァチカン美術館 Musei Vaticani には大変な点数の収蔵品があって、展示されているものを写真に写すことが許されている。それで目に付いたものを撮っていたら、もう直接目で見るよりもファインダー越しの時間が長くなって、あれもこれもとやや常識を超えた行動に出てしまった。

中でも、古典彫刻はとてもいいものが多く、十分に光のある場所に展示されているので、あれもこれも色んな角度からバシャバシャやったので、それ相応の数の写真が手元に残っている。

ここでは、ベルヴェデーレのトルソ torso del Belvedere と呼ばれているものを取り上げてみたい。石膏デッサンのモデルとしてよく使われているので、どこかで見たような気がするかもしれない。好きな人にとっては、ミケランジェロ Michelangelo Buonarroti 1475-1564 がデッサンを繰り返し描いた彫刻として知られている。頭も腕もなくなっているので難しいが、ヘラクレスか何かの神話を主題にしているのではと考えられている。

torso del Belvedere - schiena

彫刻のもつ魅力、迫力を感じるが、しかし、冷静に見てみると、胸の部分が大きすぎるし、腹から胸になるところで突然に曲がっている。それに上体をひねっているにしては、下腹部がしっかり正面を向いている。左足が膝のあたりから突然に外へ投げ出されるのにも違和感を感じる。この辺の、特定の部分が無理気味に曲げられてしまうのは、ミケランジェロの彫刻に共通するところだし、ミケランジェロがバロックの先駆けの役割を果たしたと考えられる所以だろう。

そうはいっても、とてもいい、魅せる彫刻であることには変わりない。画像を見るだけでも伝わるでしょ。

Filed under: 伊國趣味 — cova @ 00:21
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