pallalink.net は、写真の古典的な構図に揺らぎをかけている、そう深読みしてみる。そんな風に読めるのは、活動が log を媒介している所為としか思えない。どうしても一抹の座り悪さが残る、そんなものを介するあたりが、揺さぶりにピッタリきている。
“Creatures of the City” と題した展覧会のオープニング・レセプションへ行ってきた。招待状を読むと、「グレーゾーン」が彼の対象だという。
暫くの間会場に腰を据え、とりとめもなく辺りの人と話をしていたが、ふと間が空いたところで、プリントアウトを綴ったアルバムに目が留まり、改めて軌跡を確認する気になった。話していても、彼の活動のどこをどう評価するのか、その問題を解く糸口が掴めず、ごろごろとした気分を持て余していたからだ。
改めてアルバムを手繰ってみて思いついたのは、彼が材料にするのは白くトンだ部分や黒くツブれた部分じゃないのかという考えだ。ニューヨークの街角を撮った、「材料」段階のアルバムを見ていて気がついたのだが、「グレーゾーン」という言葉は正確ではない。グラデーションを十分に与えるのが難しく、すぐに埒外へ持っていかれる部分が、実際の操作の対象なのだ。そのとても繊細なところに「本来のオブジェクト」を反射させて作品が創られている。つまり、第一の工程は、すぐにトンでしまう領域を切り取ることであり、構図の後ろを掴むことだ。そして第二工程で、揺さぶりに出る。写真のもつ古典性即ち構図を弱めることに意義を見い出す。後ろに回った部分を敢えて前景にするのではなく、オブジェクトのコピーで埒外を埋めてしまって境界をズラすのだ。こうして「本来の」構図が虐められる。写真の最も基本的な力を否定する自虐といえる。
しかしそれをやると、今度は複写反射の設定が作品の主題になる。この主題の出現は、そのまま新たな枠組みとなって作者の前に現れる。そんな堂堂巡りとなってしまう。彼は、面倒のかかる堂堂巡りを意識の外にやって、かえってそこを彷徨う道についているらしい。
「言説化」という当世の理をスルーして、いちいちと一歩一歩の感触を喜ぶかのようだ。「何を目指すのか」、「何故そうなるのか」を言葉にして乗り越えるという「方法論」から体をかわす。その態度は、彼が抱えている問題に敏感になっている証なのか。
薄薄感じていたことにケリをつける。展覧会を催す、作品に仕立てるとは、そういうイニシエーションであるはずだ。しかし、彼が出して見せるのは作品ではなく、実は log なのだ。見せる必要も無い道程も晒して、作品個個のインパクトを弱める自虐が、そのまま彼のスタイルとなっている。しかも、全体を見取るには、彼に付き合って、それと分かるようには表現されていないものの、よくよく考えて分かる行く先を、こちらが見遣らなければならないようだ。
彼に惹かれるのは、そうしたからくりの所為だ。だが果たして、こんな言葉を投げかけてみたところで、お互いに立ち位置の捩れをボンヤリ見返すだけなのかもしれない。