山崎の妙喜庵茶室、つまり待庵を見た。
改めて振り返ってみて、侘びというのは充足を見切る的確さ、その美しさなのか、その意味で素っ気無くさえある。そんな考えが浮かぶ。普段感じるのは何かしらの過剰さだったのか。例えば「瑞瑞しさ」は溢れる様な生命感を湛えているだろう。しかしそれは必要を超えている。余分な、使い所のない余勢がはみ出す。それが相手を抑圧するだろう。
ところで待庵はともすれば見過ごしてしまう佇まいだ。常日頃美として受け取っている力の在り余りがない。普段から身の回りに在るものと違いがないと感じる。二畳の専用室などという強烈な意図を基にしながら、それが作為とも受け取れない。勿論、窓の大きさ、位置は計算の上に選ばれていて、斑なく光が行き届いているし、軸物ないし花活けのもてなしも不足がない。足りている。
だがそれらを建築として纏めているのは「技術」ではないのか。はたまた心としか云えないのか、押し引きしたりの調節に法則性はないのか。分かり易い命題にしてくれというのではない、絡み合ったものでいいから言い表せないか。つらつらと考えていたら感動を忘れていた。考え込んでいた。でも愉しんでいたのだろう。そう謂えば案内の人との会話は楽しかった。まんまと想い通りに運んだのか。
伝説のもつ幻想の力。それが待庵のプログラムの核心なのかと思えば腑に落ちる。モノはただの小屋だったか。つくられたのではなく、後から見つけられた美とも思える。
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