現在職を探している萬年建築学生の文章。これを書くことで気持ちの整理、客観的な自己の見直しを期待。建築ネタに拘らない。
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2006/01/23

山崎の妙喜庵茶室、つまり待庵を見た。

改めて振り返ってみて、侘びというのは充足を見切る的確さ、その美しさなのか、その意味で素っ気無くさえある。そんな考えが浮かぶ。普段感じるのは何かしらの過剰さだったのか。例えば「瑞瑞しさ」は溢れる様な生命感を湛えているだろう。しかしそれは必要を超えている。余分な、使い所のない余勢がはみ出す。それが相手を抑圧するだろう。

ところで待庵はともすれば見過ごしてしまう佇まいだ。常日頃美として受け取っている力の在り余りがない。普段から身の回りに在るものと違いがないと感じる。二畳の専用室などという強烈な意図を基にしながら、それが作為とも受け取れない。勿論、窓の大きさ、位置は計算の上に選ばれていて、斑なく光が行き届いているし、軸物ないし花活けのもてなしも不足がない。足りている。

だがそれらを建築として纏めているのは「技術」ではないのか。はたまた心としか云えないのか、押し引きしたりの調節に法則性はないのか。分かり易い命題にしてくれというのではない、絡み合ったものでいいから言い表せないか。つらつらと考えていたら感動を忘れていた。考え込んでいた。でも愉しんでいたのだろう。そう謂えば案内の人との会話は楽しかった。まんまと想い通りに運んだのか。

伝説のもつ幻想の力。それが待庵のプログラムの核心なのかと思えば腑に落ちる。モノはただの小屋だったか。つくられたのではなく、後から見つけられた美とも思える。

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2005/12/18

弁護士による建築基準法解説に反論する

17日21時から放送のNHKスペシャル「耐震偽装はこうして行われた」で、弁護士によって建築行政が批判される場面があった。建築行政を独断で断罪したと思われるので反論する。

「耐震強度が偽装されたマンションの住民達の相談にのってきた弁護士」として河合敏男という弁護士が紹介された。意見を求められて河合弁護士が自治体を批判した。

… 建築基準関係規定というのは建築基準法の中にですね、ま、大きく分けると集団規定と単体規定と二種類あるんです。集団規定というのは建蔽率とか容積率とか高さとかね、周辺の住民に対する関係の規定。単体規定というのはその建物の性能。これ構造も含みます。これどちらもちゃんと適合性を確認しなさいと法律には書いてあるんですね。ところが行政はですね、やっぱり周辺の住民とのトラブルを避けるという意味で集団規定の方ばっかりは良く見るんだけども、単体規定は見ないと。 …

そんな事実はない。単体規定、つまり窓の設置に関わる条項や階段やエレベーター、内装仕上げ材の規定や制限を、特定行政庁が確認している。建築確認申請の提出者に設計変更を求めたり、記述の追加を求めたりするのは珍しくない。むしろ特定行政庁の担当者の意見が法律の範囲を越えて厳しい要求となる場合があって、設計者が公権力の濫用だと憤慨することがよくあるほどだ。

何をもって「単体規定は見ない」といえるのか。その根拠を、合理的判断基準を示してもらいたい。

また、「周辺の住民とのトラブルを避けるという意味で集団規定の方ばっかりは良く見る」というのも疑問だ。誰が「意味」を解釈したのか。

そもそも、そうした解釈を試みることが、建築行政を議論する上で有効とは思えない。通常、社会的に問題となり易いのが、公共の福祉のために個人の所有権、財産権の行使である建築行為が制限される時である。つまり避けて通れないし、実際によく問題になる。典型的なものは「なぜ自分の土地に建てる建築が制限されるのか」という話で、色色な方法で行政に食ってかかる建築主が後を断たない。

経済を抜きにすれば建築主が建てようとする建築の性能を低くするのは益がないし、公共の建物、あるいは、売却する時や、災害時など不測の事態では問題が個人の範囲に留まらないから一定の基準を設けるのだと理解している。いずれにせよ建築を社会共有の財産と考えることになる。

河合弁護士は特定の人達の権利を守ろうとするあまり、建築関係法令および建築行政の理解が不健全になっていると思われる。

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2005/12/17

冬に桂離宮を参観して受けた感銘を記す

桂離宮を訪れて大変感銘を受けた。雅やかな時の中で養われた技巧が斬新で、至る所に散りばめられながら、それぞれが他と呼応する巧みさにただ驚くばかりだった。あまりに見事に調和しているので、通底するものが知りたくなったが、あれこれと考えても美意識としておくより他なかった。日本にしか在り得ない。といって桂にしか見られない唯我独尊の趣味趣向。意図して研ぎ澄まされた技術の世界が目の前に開けて、今も魅了されている。御幸門、外腰掛、松琴亭、園林堂、笑意軒,月波楼、書院を巡っている間に感慨が満ちてきたのが、我が家に帰り時が経った今も快い。敢えて愚を冒し、数少ない素材で自由闊達な創意を具現化する愉しさと、そうでは在りながら、そこに隠されているだろう作り手住み手の憂いが美意識に結実しているとしておきたい。

Filed under: 住まう — cova @ 02:14
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2005/11/24

建築士が槍玉に上がる

ここのところ、構造力学上問題のある建築物が、不正に建設されたことが明らかになって、社会不安がおこり、責任や補償の問題が取沙汰されている。姉歯という建築士が数多くの建築計画書の構造計算書を偽造したが、その計画が次々に検査を通過して、首都圏を中心に広域にわたって多数の不適格建築物が施工されたニュースが連日テレビを始め各メディアを賑わしている。

建築の職能から見て、二つの問題がある。ひとつは倫理の問題であり、もうひとつは検査機能である。

ひとつめの、姉歯建築士が欠いていた職能倫理の問題については、建築家の置かれている状況がどうであれ、職能の構成員一人一人が真摯に受け止めなければならない。敢えて指摘しておく。

ふたつめも重大だ。職能集団が自己検査能力を持たない。つまり、自己管理できない、自立していない事態が明らかになった。社会的には責任の追求に関心が寄っているが、建築家からすると、自らの立場を根幹から揺るがす真にゆゆしきことが起こっている。何しろ、建築家は独り立ちしていない未熟な存在だから、外からの管理を必要としている、ということになっては立場がなくなるのだ。世話のかかる問題児と見做されては、その意見は軽んじられ、仕事が割り引いて評価されかねない。

建築家が社会でどう在るべきなのか、その理想と現実とは何処がどう違うのか、どうすれば在るべき方向へ向かっていくのか。こういった、一見効きそうにない議論の積み重ねが、返って職能における自己管理機能の回復(あるいは獲得)の要点となると思われる。しかし、そうした根本の見直しの機運が起こっているように見えない。これもまた、今回露呈している根深い問題のひとつだ。

Filed under: 住まう — cova @ 01:29
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2005/03/20

福岡県西方沖に地震あり

20日午前10時53分ごろ、福岡県および佐賀県南部で震度6弱を観測する地震が起こった。震源地は福岡県西方沖、震源の深さは9キロ、マグニチュード(M)は7・0と報道されている。

程なく空港、鉄道、自動車道路といった交通が封鎖された。福岡空港は1、2時間ほど点検している間、離発着を見合わせたが、比較的早く機能を回復した。その後、高速道路も順次封鎖が解かれた。鉄道も、地下鉄や新幹線を含め夕方までに運転を再開している。

水道やガス、電話は場所により寸断されたが、それほど広域ではなく、ある知人の話から推察すると、断層線から離れた地域では、被害は小さいようだ。

今回の地震は、大きな地震が想定されていなかった地域で起こっている。どこに重点を置いて地震対策を考えるのか、かなり根本的に見直すべきだろう。

地震の被害は、阪神淡路大震災と比べるとそれほど大きくない。震源地に近い玄界島の被害がヘリコプターからの中継がテレビで放映されたが、それを見た限り、石垣が崩れるなど地盤に問題があるようだ。建物については、倒壊したのは古い木造家屋が多かった。屋根瓦がごっそりと落ちてしまい、土ばかりになってしまった屋根もあったが、施工後かなり年数が経っていたような印象を受けるものだった。建築の立場からは、今のところ、建物の耐震についてはこれまでの方針を覆す必要はないようだ。

Filed under: 住まう — cova @ 20:28
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2005/01/24

家具も重要です

「ビフォーアフター」を見ていると思うが、よくまぁあんなせまっ苦しい家ばかりを探してくるもんだ。というか、向うからやってくるのかもしれないが。狭い所為だろうが、必ず収納家具と、大きさが変わるか収納できるテーブル・机をつくるのがお決まりになっている。出来は選ばれた建築家や、その家族の求めるところで変わってくるし、かなり出来不出来がばらついているように思うが、なんにせよ、家具まで作らないといけないんだなぁ、としみじみ感じる、毎度のことながら。

周りを見渡しても、でっかいテレビでゲーム三昧するヤツの部屋の使い方は酷いものだ。ちょっと考えてみれば、部屋の大きさから言って、もてあますに違いない大きな長椅子やテーブルを、空いたスペースがなくなるまで入れてしまう。窓や扉もあることだし、それぞれの使い勝手や意味を無くす物は入れちゃ駄目でしょ、そんな使い方は間違っているでしょ。そう言われれば納得するのだが、後の祭りとはこのことだ。

まず、あれば便利でもめったに使わないし無くても問題ないものを極力なくす、のが大前提なのだが、今の日本ではそれが出来ている家は、一人暮らしのところも含めて決して多くは無いだろう。

家具の配置が上手くいくということは、生活で必要なものが把握され管理されているということで、円滑に家庭生活が営まれている証といってもいいと思う。今ある家具の一部を処分してでも、ちょっと綺麗に部屋を整えたいものだ。特別に設計してもいいが、時には失敗しながらも折をみて家具を取り替えて少しずつ良くして行くと言うのが妥当かもしれない。そんな感じでいい家を目指してみたいなぁ。

Filed under: 住まう — cova @ 01:18
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2005/01/22

冬の寒い日にふと思い立つこと

とても寒くなって、日本海側では大雪と言う話になっている。そう言えば、雪の多い地方では、町屋も妻入に造るという話があった。大棟が道に対して直角方向になっていて、正面から見て屋根勾配が断面となって見えるような造りになっているということだが、普通町屋は平入、つまり大棟が道と平行で、下がってきた軒先を伝って雨を避けながら歩けるようなことになっている地域が多い。妻入だと隣との境界へ雨が行ってしまうわけで、そこへ樋を受けるか何かしなければならない。土地を眼一杯使おうと思えば、壁を共有してギリギリまで建ててしまいたいから、境界線上で両方から集まった雨水を受けるのは綾になりやすくて拙いのだ。じゃあどうしてわざわざ妻入にする地域があるかというと、雪がどかっと降って、どさっと家の前に落ちてくるのを避けるためだと聞いている。道行く人が危なくていけないというのか。そんな地域では、屋根の上に何本も棒を渡して雪が滑り落ちないようにしているものだが、それでも十分ではないのだろう。

実は、そんな妻入りの町屋の事をあまり知らないことに改めて気付いた。都心の町屋は、通常間口が狭く奥行が長い地割で建てられることになる。面積を計算してみると半分が道路でした、なんてわけには行かず、できるだけ道の割合を減らそうとして間口が狭くなってしまうからだ。そのために、隣との長い境界に余裕を持たせることができず、雪の心配でもなければぴったりくっ付けることになって、勢い家の設計では採光や換気に苦労することになるのだった。その時には、長い奥行の中で適当な位置に中庭を設けるのが順当な解決法だ。この方法は、平入なら丁度いい。平入で奥行が長いということは、それだけ棟が高くなると言うことで、構造的あるいは経済的な問題から、途中に中庭を設けるのが都合がいいわけだ。しかし、妻入だと斜面は長くならず、その心配はないので、採光や換気を気にせずに中庭を造らずにやってしまうことも可能に思えるのだが、果たしてそんなことはするのだろうか? などとぐるぐると与太話が頭を巡った。

それからもさらに想像が続く。地中海沿岸では都心の住宅は中庭形式、中庭をロの字型に囲み、片流れ屋根でその家の屋根に降った雨水はすべて中庭へ集める造り、があたりまえになっているが、これは日本の町屋よりは大き目の地割で、何世帯かが集合して暮らしていることが多かったと記憶している。ひとつの世帯が一軒の家を構えるのが当たり前の日本とは違う。この違いを考えていて、彼の地では、地主は結構な資産家が多く、がっちり土地を握っているのではないか。ひょっとするとほとんどの人が借家住まいで、土地の所有者はほんの一握りで占められる可能性もある。どうして日本は一国一城の主であろうとするのか。そうか封建制度が前提なのか、などと、いつまでも与太与太してしまう寒い日でありました。

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2005/01/19

新しいものを求めてつい毒を吐く

年が明けてからつい嫌味の強すぎるものを書いてしまっている。そして、「ガラスの函」を非難してしまったが、一方でそんな斬り付け方をしながらも、今時のガラス張りの住宅には期待するものがある。「Casa Brutus」に代表されるような、オープンなつくりの個人住宅だ。今更ナンなんだが、そっちの方では応援しようという話だ。

一昔に比べ、この頃の住宅は映りのよい綺麗なつくりの住宅が多くなっている。住宅作家の質が上がっているのかもしれない。以前は目に付いたコンセプト、概念主導の設計はゴツゴツとしていた。そこではこだわりの部分が、どこまでも強引なものでしかなかったが、この頃は人が何を望み何を羨むのかが分かってきたのか、そこで求めている新しい生活が始まるという予感を与え、的確に演出できるような建築家が増えているということだろう。

悪口を言えば、それはショールームのような建物であり、人の目を意識しながら自らの生活を主張するものと言える。凡そ中高年の夫婦が多くのしがらみを切って捨てながら、消費に専念する暮らしをするための家になり易い。しかしそれは、言葉を変えれば、最小限の生活を目指すものではないか、と思えるのだ。移ろい行く世の流れに身を預けながら、ただ喜怒哀楽に暮れ、どこか世をはかなむ暮らしだとするなら、それは日本人がこれまでに慣れ親しんできた人生観、生活観と言えるだろうということだ。

しかも、多くの人の憧れとなり、理想と重なるのなら、非難するべきものではない、勿論。それに、新しい生活観、住宅感が形となって展開しているように思えるし、その躍動感は評価したい。その時には内容の吟味を先送りにしたとしてもいいと感じているわけなのだ。

Filed under: 住まう — cova @ 00:19
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2005/01/13

都心に住処を探す

自分の住処を何処にするかを考えるのもまた楽しい。基本的には都心居住に興味があって、手頃な大都市の古臭くまだ高層化していない地区は何処だろうかと考え始める。大規模な開発は暫く都心を相手にしていなかったので、まだまだ郊外の一戸建て、しかも通勤にそこそこ便利なあたりに求めるのが一般的な風潮だと思うが、商店街が残るもののかなり高齢化してしまった都心部には意外に住みやすい環境が残されているはずだ。

昆布を束ねて並べるような玄人向きの乾物屋や、朝からバーナーで店先に並べた豆腐を炙って焼き豆腐を作っている豆腐屋に混じって、小規模ながら夜遅くまで営業するスーパーが並んでいるような商店街。商売気を感じないほどひっそりとした喫茶店。一角にはその地域特有の業種、本だとか人形だとか薬だとかの店が裏通りまで点々としているかも知れない。つまりは、その地域の活動がある程度安定していて、がつがつと稼がなくても経済が成り立ち、生活が続いていくという安心感のある地区に興味がある。勿論そんな地区の交通は便利だろうし、社会的基盤が整備されているはずだ。歩いてそう遠くない所に図書館があれば、何も暇つぶしのために雑誌や本を買って小遣いを減らすこともなく、部屋を散らかしたりゴミを増やしたりせずに済む。学校や病院の選択肢も多い。

公園などのオープンスペースが欲しいでしょう、なんて話もあるだろうが、都心にも公園はある。サラリーマンだって昼休みに一息つく場所を上手く見つけるじゃない。暫く住んでりゃ見つかるよ。そんなもんでしょ。治安についても、成熟して落ち着いた地区にはあまり問題が多いとは思えない。例えば、東京は神田なんてよさそうな気がしている。実際に住んだことはないから何も知らないが、まぁそんな方向の考え方をするわけだ。絶対持ち家でなければ駄目と言う人には向かないが、マンションを買うのは必ずしも得にならないって言うでしょ。考えてみれば、色んな理由で住処を変える人の方が多いし、少し遠い先の家族構成にはある程度予想が立ってもリスクが決して消えるわけではない。住んでみてどうしてもその土地が嫌になることもあるし、都心に借りるのもひとつの手だと思っている。

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2005/01/12

自分の部屋の様子を脳内変換

時たま、自分の部屋の改造をあれこれと考えることがある。実際に目の前にあるのは全く散らかった様子なのだが、それをどうにか片付ける方法はないものかとあれこれ考えるわけだ。今はもう既に収納が飽和している、いや、床にまであふれ返っているのだから、作業スペースにさえ事欠き、最低限の活動にさえ、引っ掛けるだの、あるはずのものが見つからないだの、いろいろ支障が出ている。だから部屋の改装、改造に考えが及ぶのだ。

現実的には、ラックかキャビネットを買ってきて邪魔なものをあるだけ押し込める必要がある。勿論そうしないと作業スペースがまとまらないからだ。じゃあ、何処へ置く? 最初の関門だ。通路は塞ぐわけにいかないし、窓の前に置くと生活が一気に萎えるだろう。今更家具を増やす余裕など見当たらない。仕方がないので、これまでの棚の上でまだ開いている個所に効率よく各種の箱を再配置することから始め、あらかた隙間を埋めることに専念。(この時点で既に意欲が薄れる) 辛うじて開いたところで、取捨選択の地道で、横道に逸れ易く、生産性の感じられない作業が可能になる。(以下、出来上がりイメージが消滅へ)

その一方で、コンピュータを増やしたいという日頃の欲求が顔を出したりもする。一時はもう増やすまいと固く誓ったはずなのに、やれいざと言う時のバックアップ・システムだとか、テレビ番組のデジタル録画、加えて録画のライブラリィの準備まで考え始めたり。

やっぱりモノを如何に処分するか、それに尽きるかな。どうしてもそのうち増えてるからね。それと便利さをあんまり求めない自制心かな。

Filed under: 住まう — cova @ 00:34
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